19時少し前に待ち合わせ場所に着くと、そこにはもうあの男性がいた。9月の澄んだ空気をまとった物憂げな表情は、見とれてしまうほど美しかった。
実際彼は目立っていて、周りの女性たちは皆、チラチラと彼の方を盗み見ているのがわかった。
わたしは両手で頬を軽く2回叩き、自分に気合を入れた。そしてその人の前まで歩み寄る。
「こんばんは」
その人の深い色の瞳がわたしを捉える。ドキドキしないように、わたしも目に力を入れた。
「ああ、こんばんは。来てくれてありがとう」
わたしはその人の胸元に、紙袋を押し付けた。中身は、さっきデパートで買った老舗和菓子店の
「これは?」
「昨日のお礼です。助けてくれてありがとうございました。どうぞ皆様でお召し上がりください」
彼はキョトンとした表情になったあと、くくっと横を向いて笑い出した。美しい顔が少しだけ幼くなった。
一通り笑ったあと、彼は目尻の涙を拭いながら言った。
「あなたは……面白い人ですね」
「恐れ入ります。じゃ、わたしはこれで」
踵を返したわたしを、またしても彼が引き止めた。
「とりあえず、食事をしながら話しませんか。近くの店を予約してあるので」
「お礼の品をお渡しできれば、わたしにはもうお話することはないのですが」
少し癖のある髪の一筋が額にかかり、わたしはドキッとした。隙のないエリートがふと見せる、無防備な瞬間を目撃したような特別感が、そこにはあった。ほんの少し前髪が乱れるだけで、周りの人を惹きつけてしまうこの現象に名前をつけるとしたら……。
わたしはバッグから手帳を取り出し、「必殺フラッシュチャーム」と書き込んだ。一瞬だけチャーミングな姿を見せて、相手をメロメロにする技だ。うん、何かのシナリオに使えるかも。
手帳から顔を上げると、彼がまたしてもくすくすと笑っていた。
「いろいろと楽しそうな人ですね。予約の時間までもうすぐだから、とりあえず行きましょう」
イタリアンかフレンチレストランにでも案内されるかと思ったが、たどり着いたのは路地裏にある、落ち着いた割烹だった。凛とした和の設えを仄かな照明が照らす、看板すらない店だ。
箱庭に面した奥の座敷に通されて、わたしは今まで味わったことのないような懐石料理でもてなされた。
シンプルでありながら奥行きが感じられる料理を、女将が選んでくれた、いちばん合う日本酒と合わせていただく。控えめに言っても、至福の時間としか言いようがない。
彼はお酒には一切手を付けず、ガス入りの水やモクテルを飲んでいた。女将と彼との会話から察するに、シャインマスカットとジャスミン、リンゴとカルダモンなどの旬のフルーツを使ったモクテルは、彼が予約を入れるときに特別に用意されるもののようだった。
「連れてきてくれてありがとう」
デザートの柿の羊羹を終えて、わたしは深々と頭を下げた。
「今日のお料理……、とっても美味しくて、新しい世界を知った気がします」
「それはよかった」
彼――
自分が彫刻家でないことを悔やむわたしに向かい、彼はにっこり笑った。
「僕のほうこそありがとう。あなたのことを知ることができてよかった」
彼は、わたしの食事を妨げないよう、小出しに質問をしてくれた。職業、趣味、年齢、出身地……。わたしは料理に集中したかったこともあり、彼からの質問に答えはしたけれど、自分からはほとんど質問を返さなかった。よく考えたらめちゃくちゃ失礼だな、わたし……。
「出雲さん」
「蓮でいい」
「……蓮さん、昨日は助けていただいて本当にありがとう。それから、セクハラまがいのことを口走ってしまい、本当にすみませんでした」
わたしは姿勢を正して、再度頭を下げる。
「とんでもない。ところで、新婚生活はあなたが僕の部屋に越してくる形でかまわないかい?」
わたしは驚きで目を見開いた。新婚生活?
「……まさか、昨日のことでまだわたしをからかっているんですか?」
「からかう? いや、あなたが僕にプロポーズして、僕はあなたと結婚することにした。ただそれだけだ」
はぁ?
わたしは困惑する。何を言っているのだ、この人は。そして、いつの間にか口調も砕けているではないか。
「だって、わたしたち、お互いのこと何もしらないし」
「僕は今日、あなたのことを知ることができた」
「でも、わたしはあなたのこと知らないし……」
「だから、なんでも質問してくれって言ったじゃないか。包み隠さず答えるから」
蓮さんは、さぁどうぞと言うように、両手を広げてにっこり笑う。悔しいことに、そんな表情にも見とれそうになった。