「大丈夫?」という声が何度か聞こえた……ような気がした。
頭の芯が重だるいし、まぶたも鉛のように重くて上げられない。
「香澄さん、大丈夫そうですか?」
「大丈夫よ、私が見ているから」
大丈夫じゃない、なんだか気持ちが悪い。
「ううぅ」
「あら、起きそうね。香澄さん、だいじょうぶ?」
この声は、沙代里ね。
「気分が……」
「あら、吐きそう? お手洗いへ行きましょう、立てますか?」
体を支えてもらって、ようやく立てる状態。引きずられるように店の奥へ進んでいく。
「ほら、こっちよ」
連れて行かれた先は、トイレではなく小さな部屋だった。
「じゃあね、香澄さん。楽しんで」
そんな言葉を残して沙代里はどこかへ行ってしまい、私は一人で取り残された。
なにを楽しむって? いや、そんなことより気持ちが悪いし、体も思うように動かなくてそれどころではない。私は床に横たわったまま、時々突き上げる吐き気を押さえるのに必死だった。
しばらくすると――体感的には5分くらいだったけれど実際はもっと長かったかも――何人かの足音が聞こえてきて、近づいてきた。
「ここにいたのか、おい、あの部屋へ連れていけ」
男の人の声が聞こえたと思ったら、体が宙に浮いた。
えっ、何が起こっているの?
いつの間にか、私は体格の良い男の人に背負われていた。その他にも二人の男が私のすぐ近くにいる。
「いや、やめて」
暴れる私の腕を、その二人が押さえている。
なに、この人たち! 手慣れている? 私をどうするつもりなのよ!!
私は恐怖と怒りで震えていた。
※※※
ガヤガヤと騒がしい店内の片隅で、俺は煙草を燻らしていた。
他の客からは死角になっているため、誰にも邪魔されず真っすぐに伸びる煙を目で追っていた。
いつからだったろう、あの人を常に目で追うようになったのは。
あの人を好きなのだと気付いた時にはすでに彼女は人妻で、何の因果かその夫は俺のライバルで。
俺は、それでも常にあの人を見つめ続けた。
こんなに自分が執着する性格なのだとは知らなかった。すんなり諦められれば楽なのに。
俺のライバルのあの男はクズだ。
あの人の他にも女がいるし、あの人には酷い言葉で罵ったり、キツい態度を取ることもある。
あの人の愛情を逆手にとって、お金を使い果たすこともあるという。
それなのにあの人は、愛情故にすべて許しているようだ。
どうして、あんなやつが好きなのか。
もしも俺に、その愛情の一万分の一でも与えてくれたなら。
俺は全力であの人を愛するのに。
「おや?」
物思いに耽っている間に、あの人を見失ってしまった。
俺としたことが。
どこだ?
店の外にはまだ出ていない筈、ならば、奥か。
「ちょっと、離して! 嫌よ、やめて」
微かに聞こえたあの人の声、一気に頭に血が上る。
「ここか」
思いっきりドアを蹴り上げて、派手な音を立ててその部屋へ入る。
すると一斉にこちらを注目する男たち。
三人か。
小さな部屋の中には、あの人を押さえつける男たちと、カメラを構えている男がいた。
速さが勝負と読んで、一言も発せず行動に移す。
まずは一番近くにいたカメラを持った男を蹴り倒す。
その間に向かってきた男の腹部を目指してタックル、そのままうずくまり巴投げの要領で投げ飛ばす。
三人目は手っ取り早く、股間へ蹴りを入れる。
「香澄さん、大丈夫ですか?」
「な……んで、松平くん?」
目が虚ろだ。
「とにかく、逃げましょう」
歩ける状態ではなかったため、俺は香澄さんを背負い、車で自分の別荘へと運んだ。
緊急事態だったとはいえ、俺は密かに憧れ続けていた香澄さんに初めて触れた。
いまだに、触れていた背中がやけに熱い。
アルコール臭はしていたが、それとは別に甘い香りがしていた。
当の香澄さんは、今は、俺のベッドの上で眠っている。
呼吸は穏やかだし、脈も正常のようだから、おそらくそのうちに起きるだろう。
無事で良かった。
※※※
目が覚めたら、見知らぬベッドの上だった。見上げた天井も、掛けられている毛布も見覚えがない。室内は……変なホテルではないようだが。
いったい私はどこにいるのだろう?
記憶のページを辿ってみるが、いまひとつはっきりしない。というか、霞がかかっているようにぼんやりしている。
上半身を起こしてみたら、クラリと目まいがする。
ちょうどその時、ノックと共にドアが開いた。
「えっ、なんで?」
そこに立っていたのは、松平くんで。
「お水、飲みますか?」
穏やかな声で、そう言った。
「ありがとう、いただくわ」
喉がカラカラだったので、一気に飲み干した。
少しだけスッキリした頭の中で、記憶が戻ってきた――まだ一部分だけれど。
「私を、助けてくれたの?」
「何があったか、憶えていますか?」
「えっと、お酒に何かの薬が入っていたみたいで……それで」
「そんな事だろうと思った」
顔をしかめている。
「今、何時かしら?」
「もうすぐ23時です」
「迷惑かけてごめんなさい、帰らなきゃ」
立ち上がろうとしたら、ふらついた。
「おっと、まだ薬が効いている。今日はここで休んでください」
そう言いながら体を支えてくれようとして、その手が私に触れた瞬間。
えっ、なに?
ビビッと電気が走ったような、でもそれは物理的なもの――静電気とか――ではなくて。
さらに言えば、手を離した後もずっと温もりが残っているような、そんな錯覚さえもする。
どうしちゃったのだろう私、これが運命だって誰かに言われたら、そのまま信じてしまいそうだわ。
「ごめん、あんな事があった後で男に触れられるのは嫌だろうね」
松平君は私が驚いた顔を見て、触れたことに嫌悪したと誤解している。
「違うの、逆なの」
「逆?」
「あなたに……触れて欲しくって」
「なっ、なんだって?」
「ダメかしら? なんだか私、体が熱くて……あなたに鎮めて欲しくって」
「香澄さん、そんな風に言ったら、男は誤解してしまいますよ」
松平くんの表情は、右の口角だけが上がり苦笑いという感じなので、どうやら本気にされていないみたい。
そんなわけないのに。
「誤解じゃないわ、私はあなたに……欲情しているのよ」
はっきり言葉にすれば、羞恥心が高まり、熱い体がさらに燃え上がる。
「香澄さん、そんなことを言っては駄目ですよ。きっと、まだ薬が抜けていないのだと思います。一時的な感情に流されてはいけません」
そんな……確かに、普段よりも何故だか性的な興奮をしているのは、薬の影響なのかもしれないけれど。好きでもない男に欲情なんてするわけないのに。
「私のこと、嫌い?」
「うっ、そんな……香澄さんは憧れの人です」
「だったら、いいでしょ?」
「いえ、だから、駄目なんです」
「松平くんってば、堅物なのねぇ」
そう言ったら、少しだけムッとしたような、それでも怒りを抑えているふうに見えた。
だから、今度は攻め方を変えてみる。
「あのね、あなたは私を助けてくれたでしょ? 本当に感謝しているの」
「それは、当然のことです。大したことではありません」
「そんなことはないわ、相手は三人もいたのよ。もしナイフでも持っていたら、あなたも危ない目に合っていたわ」
「それは、そうですけど……」
「だから、お礼がしたいの」
そう言いながら私は、松平くんの手を握る。
私よりも随分と大きな手。
少し荒れているけれど、温かい手だった。
「お礼って……香澄さん」
手が触れたことによって、私が意図することをしっかりと理解出来ているようにみえる。
わたしたちは、しばらく無言で見つめ合った。
「本当に、いいんですか?」
沈黙を破ったのは松平くんだった。
「いいわ、松平くん。いえ、透! 私を抱いて」
無表情だった彼の瞳に、光が射した。
「香澄!」
名前を呼ばれて、体が震えた。
透は優しかった。
私のことを、壊れ物のように丁寧に扱う。
逞しい体からは想像できない程に繊細な愛撫で私をほぐしてくれた。
最初は緊張していたけれど、わたしはすぐに彼に溺れた。
現在の二人の立場や、前世から生まれ変わった私の人生のことも、このいっときだけは頭から追い出して、ただひたすら透のことを想っていた。
二人の体の熱と欲望が交差し、我を忘れるほどに夢中になった。
「香澄、いくよ」
名前を呼ばれ、私の体の奥底から熱が溢れる。
「透、きて」
だから、自然に受け入れることが出来た。
※※※※
それは夢のような時間だった。
自分の人生で、こんな事が起こるなんて思いもしなかったから。
もしかしたら本当に夢なのかもと、何度も自分をつねってみたが、それは現実だった。
だが、うぬぼれることは出来ない。
恋焦がれていた香澄さんを抱くことが出来るのは、彼女が薬を盛られて――おそらくは媚薬――それが抜けきっていないからなのだと思っている。
それでも、たとえ何かの間違いでも、彼女に触れることが出来るのなら。自分の全て――全身全霊で彼女を甘やかしたいと願う。
「透、きて」
その瞳に自分が映っていることに舞い上がり、彼女への想いではち切れんばかりの自分自身をあてがう。
「うっ、痛っ」
「えっ、どうした?」
この抵抗感は……まさか。
驚いて動きを止める。
「だいじょうぶ、このまま、ゆっくり」
言葉とは裏腹に辛そうな表情に俺はひるみ、腰を引こうとしたのだが。
「透、お願いだから、そのまま……」
「本当にいいの?」
「透がいいの」
その真剣な表情に、単純な俺は喜んでしまう。後で勘違いだったって言われたってかまわない。
ゆっくりと腰を沈める。
「んんっ」
ある程度すすめると、ようやく抵抗感がなくなった。
おそらく俺の仮説は正しいのだろう、だとすれば感無量である。
香澄さんの負担にならないように、出来るだけ優しく抱いた。
※※※
「初めてだったの?」
透が驚くのも無理はない。
私は秀平さんと結婚している人妻なのだから、処女だと言ったって誰も信じないでしょうね。何度も秀平さんを誘っても応じてくれなかったなんて、恥ずかしくて誰にも言ってないし。
透にも知られたくはなかったのだけど、私が痛がったために気付かれた。だってあんなに痛いものだなんて知らなかったもの。
出血もあったために、透は確信したらしい。
「ええ、恥ずかしい話よね」
「そんなことはない、俺は……嬉しいよ」
男の人でもこんな表情をするの? どこか誇らしげで、でも照れている。
いや違うか、秀平さんだったらもっと飄々としているだろうし、あんなに優しくはなかっただろう。
今思えば、秀平さんに抱かれなかったことが不幸中の幸いだったのだなぁと思う。
「香澄さん」
思いつめたような顔で透が呼ぶ。
「どうしたの?」
「責任を取らせてくれ。木暮と別れて一緒になろう」
えっ?
なんて誠実な人なんだろう。
気持ちは嬉しいし、本音を言えば私だって透と一緒になりたいのだけれど。
「それは……無理よ」
今、秀平さんと離婚したら持参金は戻って来ないし、さらに透とのことがバレたなら逆に慰謝料だなんだと取られかねない。
秀平さんは、そういう男なのだ。
もしかしたら、お金だけじゃなく、透に嫌がらせをすることもあるかもしれない。
「そうか、そうだよな」
透はわかりやすく落ち込んでいた。
そんなにあいつが良いのか、と小さな声で呟いていた。
それは誤解だけれど、そう思わせておいた方が透のためだから、私は黙っていた。
「ならば、木暮に黙って会ってくれないか?」
「え?」
「セフレ、いや愛人契約にしよう。それなりの対価は払うよ」
「なんですって?」
前言撤回するわ、誠実でもなんでもないじゃない。やりたいだけなの?
嘘よ、そんなはずない。
「どうして、そんなことを言うの?」
「それは……チャンスだからな」
「チャンス?」
「木暮の妻を寝取るなんて、こんな気持ち良いことないだろう」
そんな……秀平さんへの復讐のために私を利用するというの?
「酷い、帰るわ!」
怒りに任せて声を張り上げた。
私は帰り支度を整え、荷物を持つ。
その間、透は何も言わず、私も視線を合わせずにいた。
ドアを開ける前に、私一度だけ振り向いた。
透は俯いていて表情はうかがい知れない。
「さよなら」
小さく呟いて、外へ出た。
早朝の空気は澄んでいたが、私の心は澱んだままだった。
タクシーで家へ帰る。
本当はこんな気分では帰りたくなかったのだけど、こんな時間に頼れる人もいないから。
「ただいま」
誰もいないと思っていたリビングには、秀平さんと沙代里がいた。
「香澄さん、朝帰りなのね。心配していたのよ」
しれっと、そんなことを言う沙代里には腹が立つ。
薬を盛って男たちに襲わせようとしたくせに。
「昨夜はどちらへ?」
男たちが失敗したことはわかっているのだろうし、私が警察か病院へ通報したかどうかの心配かしら?
どう答えてやろうかしら。
To be continued