第三話 『ハンドルネームは『スピリタス』』
「気分が良くなってから、教室に入ればいいですよ。担任には伝えておきますね」
と、黒崎先生が言ってくれたから…
「顔色、悪いわよ。お勉強も大事だけれど、体あってのことだからね。一時間目は全体集会になったから、ゆっくりしていって」
と、保健室の先生が言ってくれたから。
美月は二人の優しい言葉に甘えて、全体集会に向かった二人を見送りました。保健室のベッドの上から。野良ダンジョンから学校までは黒川先生が連れてきてくれたけれど、吐き気と目眩は収まっていなかったから。
黒崎先生に悪いことしちゃったな。野良ダンジョンから学校まで目と鼻の先だったけれど、重かったよね。でも、オンブしてもらうのなんて、いつぶりだろう? 最後にオンブしてもらったのはお父さんだったと思うけれど… いつだっけ? 暖かくって、広い背中は覚えているのだけれどなぁ。
思い出そうとしているうちに、美月の意識は夢の中へと引き込まれて行きました。けれど、トロトロとした心地よさは5分ぐらい。耳元で鳴ったアラームで消されちゃいました。
「朝のホームルームの時間かぁ」
いつもなら、教室で教科書を広げながらクラスメイトのギャル達を観察していたり、風紀委員会の「朝の挨拶当番」で立っている正門から教室に戻る時間です。気持ちを切り替えるために、朝のホームルームに遅刻しない様に、スマートフォンのアラームを掛けているのです。
美月はアラームを止めると、I‐Tubeを開いてさっきの生配信の動画をチェックしようとしました。
ゴブリンの頭や顔ばかりで、ダンジョン内はまったく撮れていないだろうなぁ。あれ? こんな時間に生配信やる人が居る。
画面右上の通知ベルがチカチカしているのに気が付いて、美月は登録チャンネルを開きました。
美月が登録しているI‐Tubeのチャンネルは、そのほとんどがダンジョン探索者。その数ある中で一番のお気に入りは、ハンドルネーム『スピリタス』さん。
スマートフォンの画面いっぱいに、黒髪をオールバックにした柔和な男性が現れました。男性が軽く頭を下げると、次に画面を覆ったのは一枚の紙。
『未登録ダンジョン。カルミア社登録番号B792・スピリタス』
ただの白い紙に書かれた黒い字はとても丁寧で、とても見やすいです。
『待ってました!』『今日こそダンジョンクリア!』『この未登録ダンジョンて、どこですか?』『荷物持ちでいいから、同行したい』『私、カメラ回しますよ〜』…
途端に、画面が書き込みで賑やかになりました。
今日も未登録ダンジョンなんだ。と言う事は、前回の続きかな? スピリタスさんは魔力が無いから、コンテニューアイテムでその日の最終地点を保存して、次にその場に瞬間移動したい時は空間アイテムを使っているんだよね。私も脱出魔法じゃなくって、アイテムにしようかな。でも、お値段がリーズナブルじゃないのが難点。はぁ… もうちょっとでいいから、安くしてほしいなぁ。
そんな事を思っていたら、一瞬だけ画面がブレました。
「あ、中世のお城風ダンジョン。やっぱり、前回の続きだ」
赤レンガの地下道です。左右対称に木のドアが付いていて、間には明かり用の松明が静かに燃えています。
『スピリタスさん、今日も一人?』『スピリタスさんて、コンビだよね?』『足音、1人分だ』『革靴、よく響く〜』『スペリタスさんて、本物のバーテンダーさん?お店行きたいな〜』『今日のカマ―ベストもカッコいいです~』…
スピリタスさんのバーテンダー姿、カッコいいよね。全身が映っただけで投げ銭しちゃう気持ち、分かるな。立ち姿はスラッとしてるのに、捲った袖から見える腕は以外と筋肉質だし。細マッチョて言うんだっけ?
『今日は戦闘あるかな?』『すこぶる期待』『見事な剣さばき、今日も期待しています』『ナハバームちゃん、今日も頑張って』…
スピリタスさんも一人だから、ナハバームが大活躍だよね。私みたいに戦闘中激しく動かなくってもいいなら、スマホはアームバンドで固定でもいいけれど、スピリタスさんは剣士だから動くもんね。腕が思いっきり激しく。
『ナハバーム』はダンジョン探索者の為に開発された、自立型スマートフォンです。昔に流行ったペットロボットをベースに、主人として登録した人物を追跡することと、簡単な命令を聞けます。アイのように派手な動きのない探索者よりも、剣士や武道家のように体を動かして敵を倒す探検者に重宝されています。
『小隊のお出ましだ!』『ナハバームちゃん安全確保して〜!』『10秒! 10秒で片付けちゃって』…
画面がさらに賑を見せます。左右のドアが開いて、スピリタスの道を塞ぐように25人程の骸骨剣士がぞろぞろと現れたと思ったら、なんの溜めもなくスピリタスの体が舞いました。
『来た来た来た来たーーーー!!』『スピリタス無双!!』『ケペシュ! ケペシュ!』…
画面が『ケペシュ』の書き込みでいっぱいになりました。
スピリタスの装備している剣は、『ケペシュ』というエジプトの鎌型の剣。刃先は外側に向かって鋭利になっていて、端まで曲がっています。だいたい50〜60センチ程度ですが、スピリタスの装備しているものは、もう少し長いようです。けれど、湾曲した大きな剣を、狭いダンジョンでも使いこなすその姿に、ファンは毎回大興奮です。
いつ見ても綺麗。スピリタスさんの戦いは、踊っているみたいなんだよね。あの湾曲した大きな剣を、自分の手足みたいに使いこなすなんて、どれだけ訓練しているのだろう? それとも私のギャルみたいに、スピリタスさんはバーテンダーの恰好をすれば剣豪になれるとか?
ケペシュはその湾曲した刀身で骸骨剣士の盾を引っ掛けて剝ぎ取って、硬いはずの骨をスパ! と難なく切りつけていきます。矢継ぎ早の待ったなし! で、あっと言う間に骸骨剣士の山が出来上がりました。
『3分! 3分ジャスト!!』『息も上がってないじゃん!』『ケペシュて、使いやすいのかな? 俺でも使える?』『ナハバームちゃん、スピリタス様のお顔を撮って~』…
あ、ちょっと動いている骨がある。可愛いかも。
スピリタスは襟元に指を添えて、乱れていない事を確認します。そして、何事もなかったように奥へと進み出しました。
画面には写っていないけれど、内臓のマイクが「カサカサ… カサカサ…」と微かな音を拾い始めました。最初は気のせいかと思うほど微かな音。けれど、その音は直ぐに何重にも聞こえ始めて、気のせいじゃない事が分かりました。
サッ! と、画面を黒い影が横切ります。同時に、スピリタスは足元に向かって、携帯アイスピックを投げつけました。厚い氷を砕くアイスピックは、スピリタスの足元のレンガに突き刺さります。大きな蠍を串刺しにして。
『ヤバ、蠍じゃん』『でかっ!!』『ピック投げも凄い!』…
携帯アイスピックって平べったいんだぁ。カマ―ベストのポケット、便利だね。
画面には、スピリタスの足元をカサカサと動く蠍たちが映っています。一匹がやられたから警戒しているのか、先端に毒針のある尾節をククッと持ち上げて、様子を伺っているみたいです。
スピリタスはピタリと足を止めて、左側のドアをおもむろに開けました。
『ぎゃぁぁぁぁぁ!』『飛ぶ蠍ww』『チビ蠍、戦力外ww』『大蠍!』『ビンゴ!』…
ザザザー! と、小さな蠍が流れ出してきます。スピリタスは向かってくる蠍の集団を、ケペシュをクルクルと回して払い飛ばしながら、部屋の3分の2を埋めている真っ赤な大蠍に突っ込んで行きました。
『躊躇という言葉、知らないのかな?』『刺されたら一発アウトだよね』『あんなでかい大蠍見たの初めて』…
凄い。ケペシュの剣先で蠍の外骨格を剥がして、そのまま湾曲した刃で切りつけてる。スピード自体も速いけれど、二つの事をほぼ同時に出来るからなおさら早く見えるんだ。
私ならどうする? 炎系? それだけじゃ弱いよね。外骨格への攻撃と中身への攻撃。スプリタスさんみたいに一度で二回攻撃じゃないと鋏や毒針が襲って来るし、足元の蠍も面倒だよね。… 風と炎を連発する? 風系の魔法で外骨格を剥がすのと同時に、関節への攻撃も出来るよね。その直後に炎で爆発… 詠唱が間に合うかな? 事前に仕込んでおけば間に合うけれど、それだと防御呪文の仕込みが一つになっちゃう。
「早口言葉を練習しようかな?」
『あっと言う間に刺身w』『大蠍の姿盛りww』『美味そう!』…
瞬きもしないで、スマートフォンの画面を見つめながら思案しているうちに、大蠍は文字通り料理されました。見事な姿盛りに。ワラワラといた蠍たちはその姿盛りに群がって、盛んな食欲を爆発させていました。
スプリタスがドアを閉めると、足元のナハバームが鳴きだしました。アラーム機能です。
「ケロケロ、ケロケロ」
『ちっ、タイムアウトか~』『今日はここまで』『次回も期待』…
カエルの鳴き声に、スプリタスは画面に向かって「バイバイ」と無言で手を振りました。ほんの少しだけ微笑みながら。
「あ~、終わっちゃった」
プツ! と配信の切れたスマートフォンを投げ出して、美月はゴロンと寝返りを打ちました。保健室の白い天井を見ながら一時間目終了のチャイムを聞いて、今度こそダンジョンから引き戻された感じを覚えます。
スプリタスさんの配信て、必ず40分~45分なんだよね。もう少し延長してくれてもいいと思うけれど、授業サボって見る分にはちょうどいい時間だよね。気分も落ち着いたし、授業授業。
「あれ? 私、鞄どうしたっけ?」
ベッドから起き上がって、乱れた制服や髪を整えて… 美月はここで初めて鞄が無い事に気が付きました。
「あれれ? 鞄、鞄…」
ベッドの周りにも下にもありません。衝立を抜けて先生の机やその周り、保健室の中をくまなく探しても見当たりません。
「え? え? え?」
ど、ど、ど、どおしよう。鞄、何処に置きっぱなし?
「あ、哀川さん。気分は良くなりましたか?」
パニックになり始めた美月の背中に、保健室に入ってきた黒崎先生が声をかけました。
「あ、先生。あの、今朝はすみませんでした。ありがとうございます。それで、あの、その、私の鞄…」
美月は早口で言いながら振り返ると、黒崎先生の姿を見てホッとしました。その両腕の中に、大事そうに美月の鞄が抱えられていたから。鞄は学校指定で皆と同じだけれど、お守り代わりのキーホルダーが見えたから、すぐに自分の鞄だと分かりました。四つ葉のクローバーを持ったカエルのキーホルダー。
情けなさそうに笑いながら、黒崎先生は鞄を差し出してくれました。美月がホッとしたように受け取ろうと手を差し出すと
「あ、やっぱり探していましたよね。すみません。足元に置いて行こうと思っていたのに、持って行っちゃいました。今日の全体集会、実は生徒に内緒の荷物検査だったんですよ」
ピシ! と、美月の体が強張りました。ポン、と腕の中に鞄が戻って来たのに。
え… 荷物検査?! 今日? え? 私、何も聞いてない。
「先週末、教室で煙草の吸殻と飲みかけのアルコール缶が置きっぱなしになっていたのですよ。うちの学校の校則が緩くても、さすがに喫煙とアルコールはアウトですからね。全体集会をしているうちに、教室に置いてある鞄を検査させてもらったんですが… あ、これは内緒でした。今のお話し、皆さんには内緒ですよ」
「あ、あの、私の鞄の中は…」
見た? 見られた? 私の秘密、知られちゃった? でも、私の鞄を調べたのがダンジョン配信を見ていない先生なら、分からないかも。あ、ここで「ワンチャン」て使えるんだっけ?
「僕が確認するつもりで、職員室の机の下に置きっぱなしでした。でも、哀川さんだったら検査しなくても、問題ないでしょう?」
それって、誰にも中を見られていないってことだよね?
黒崎先生の微笑みに、美月は心の底からホッとしました。
「ああ、二時間目が始まってしまいますね。保険の先生には僕から報告しておきますよ」
「ありがとうございます。あ、先生、これ…」
美月はほんの少しだけ鞄を開けて、中から小瓶を取り出します。そこには色々な種類のロリポップキャンディーが詰まっていました。
「キャンディーは、校則違反じゃないですよね?」
クルクルと瓶の蓋を開けて差し出すと、黒崎先生はクスっと微笑んで一本取りました。虹色に輝くハート型のロリポップキャンディーを。
黒崎一、31才。風紀委員会担当なのに何かと甘いこの先生は、学校の人気者です。