第28話「前田よしとの過去①」

2021年2月14日。世間は所謂バレンタインデーだが、長空第一中学3年生の前田よしとは、来週に迫った都立高校入試に向けて最後の追い込みをかけていた。一日5時間は机に向かい、国語、数学、英語、理科、社会の5科目を必死に復習していた。街のイルミネーションなど別世界の別人類が行っているとしか思えない。


夕飯の食卓では、両親が熱心によしとの話を聴いてくれる。


「長空北高校に合格したら、絶対男子バレー部に入る。インターハイに行きたい。大学も、有名大学に行って親孝行がしたい」


毎日同じ趣旨の事を両親に言い、自分を奮い立たせていた。両親も頷きながら聞くのだった。携帯電話のSNSアプリには、友達からの応援のメッセージもよく届いた。中学時代もバレー部の司令塔で、勉強の偏差値も高かったから人気者だった。


「前田は将来何になるんだろうな」


中学の同級生達は、勉強もスポーツも熱心に取り組むよしとを尊敬していた。長空第一中学から長空北高校を受験する生徒は他にも何名かいた。よしとの合格は固いだろうと思われていた。


2021年2月21日。都立高校入試当日。よしとは、この日全力を出し切り無事入試を終えた。実力を発揮できた者ばかりではなく、帰り道で重々しい空気の者もいた。よしとは、特別励ますでもなく、それでいて明るく振舞ったのだった。勉強からの解放感が次第に湧いて来て、それを分かち合うように皆と話して帰った。


2021年3月2日。よしとは無事合格し、長空北高校への入学が決まった。両親は合格を喜んでくれた。これでバレーボールに打ち込める。長空北高校は都大会3回戦レベルだ。自分がレギュラーになり司令塔として活躍して、いつかは全国に導きたい。


合格者には数学の予習が宿題として課せられた。春休み中に1学期の学習内容を全て予習すべしという宿題だ。入学後は直ぐに予習テストが行われ、宿題の出来不出来が実力で確認される。しかし中学を卒業すると、よしとは数学の予習はそこそこに、バレー部の春休みの練習に混じった。長空北高校男子バレー部は、中学卒業後の新入生が練習に参加できる。そこで存在感をアピールしていた。早くレギュラーになりたかった。


「新入生の前田はそこまで大きくないけれど動き方が上手いな」


「先輩、ありがとうございます。背は176cmあります、頑張ります」


2021年4月7日。よしとは長空北高校に入学した。ここで神楽りお、横山みずき、田原えみかと同じクラスになった。よしとがりおに抱いた第一印象は、眼鏡の似合うおしとやかな女の子だなというものだった。一目で好きになったわけではなかった。よしとが、りおを強く意識するきっかけとなったのは、件の数学の予習テストの結果が返却された時だった。りおは100点満点だった。よしとは60点。


「神楽さん、100点なんて凄いね。理系かな?」


よしとが話しかけると、りおは驚いて、


「文系です」


と言った。直ぐにそそくさとその場を去って行った。その後ろ姿に、正面から見た聡明さを隠しきった何とも言えない妖艶さがあったのだった。


よしとは、生まれて初めて女子に強く惹きつけられたのだった。中学時代も確かに好きな女の子くらいいたが、遠くから眺めて終わり。男子バレー部の活動が楽しすぎた。その熱心な姿を見てよしとを好きになった女子生徒もいたが、そういった女子と恋仲になろうなどとは夢にも思わなかった。


中学時代に概ね同じ偏差値だった生徒達を集めて進学校を構成しているのに、なぜこんな風に差が出るのだろうか。りおは賢い人物なのだと思った。


よしとは、りおに積極的に話しかけた。


「神楽さんはもっと偏差値の高い高校は受験しなかったの?」


「家から近い方がいいかなって思ったの。勝負は大学受験だから」


りおは、よしとが積極的に話しかけて来る事は嫌ではなかった。


「前田君。何部に入るの?」


「俺は春休みからずっと男子バレー部の練習に参加しているよ」


よしとは、バレー部の活動に注力する様子を話したり、実際にバレー部の練習にひたむきに取り組んでいる姿を見せたりして、りおから信頼されていった。


2021年5月7日。体育祭が近くなる頃には、りおの周囲には、みずきとえみかがいた。やはり成績優秀なりおを勉強面で頼るように輪が出来ていた。


ある時、みずきが、


「前田君は安全だと思うぞ。もっと仲良くしても良いはず」


とりおに言った。みずきは、隣のクラスで同じ陸上部の園崎と、この時期には関係が発展していたから、さらにもう一組男女のペアが出来たら素敵だなと思って、アドバイスしてみた。


しかし、


「みずきには言うね。私、女性同性愛者なんだ。前田君の事は凄く悩んでる。でも変に思わないで」


と、りおから女性同性愛者である事を打ち明けられたのだった。みずきは、変には思わない事を伝え、逆によしとに話しかけるのを辞めさせようかと打診した。


りおは、


「前田君みたいな男子の知り合いがいるのは何かと助かる」


という返事だった。みずきは、複雑な問題を突然手渡された気持ちだったが、そのぶん頼られているのだろうと理解した。ただ、よしとの方でりおと付き合いたい気持ちが大きくなったり、満たされなかったりしたときにどういう関係性に落ち着くのか、そこは責任が持てない気がした。


えみかも、同じ時期にりおから女性同性愛者である事を打ち明けられたが、意味がよく分からなかった。女の子同士で仲良くしていられれば幸せというのであれば、それは少し理解できた。


2021年5月16日。体育祭で、よしとは100M走の決勝に進出した。りおはよしとが全身全霊をかけて100Mを走る姿を見て感心した。


「前田君。バレー部で鍛えているから速いね~!」


よしとは、勇気を出して、


「おう!神楽は勉強できるのにツンツンしていないな!」


と言った。自分の気持ちを伝える為に予てから用意していた台詞だ。


りおは、これには苦笑いだったが、


「いいよ」


と言ってあげたのだった。よしとが「神楽」と呼びたかっただけで、あんなに熱心に自分に話しかけるのが面白かった。自分より遥かに屈強な人物が、やたら丁寧に接している事も、そっちの方が変な気もした。


「神楽は手が綺麗だな」


「え~!やめてよ!」


りおは無邪気に笑う。よしとは触れ合いたい気持ちと向き合う。




2021年6月9日。昼休みにみずきは、りおを教室から連れ出して、


「前田君は明らかにりおと付き合う気でいるよ。りおは付き合う気もないのに、ちゃんと話したほうがよくないかな」


と言った。みずきはお節介だろうと言うべきだと思った。女性同性愛者とはどういう事なのかは理解しきれないので、そこは言わなかった。


りおは、


「もう決めたんだ。前田君にはいつか必ず女性同性愛者である事を打ち明ける。その時、理解を示してくれたら友達になってあげる」


と言う。


みずきはホッとして、


「よくわかんないけど女性同性愛者も様々なんだな。男子に好意を持たれるのが嫌な人ばかりではないのだな。りおは平気なんだな」


と言った。


その日の放課後、みずきは、今度はよしとを教室に居残りさせて問い詰めた。


「前田君は彼女っていうのが欲しいの?」


よしとは、りおの何が好きなのかと聞かれた気がして、狼狽して、


「まだちゃんと好きじゃないうちから、付き合いたいと思っていたり、触れ合いたいと思っていたり。それは良くないかなと思う」


と言う。


みずきは、


「前田君がそう思うなら、気が済むまでりおの事、見守ったらいいね」


と言った。みずきは、りおは成績も良いし、お淑やかだし、そういう匂いに惹かれるのも無理はないと思った。自分の気持ちと向き合っているのであれば、頑張れと思う。


よしとは、ホッとして、


「田原さんから聞いた情報によると、神楽は小説家を目指しているようなので、それを打ち明けてくれた瞬間が唯一絶対のチャンスボールだ」


と言う。


みずきは、大爆笑した。そこまで大笑いする事でもないが、りおが女性同性愛者である事を知っている身として笑い飛ばしてあげたかった。


「『横山』でいいよ、私の事も。えみかも『田原』でいいから。楽しいな前田君」


そして、よければりおの連絡先をこっそり教えてあげようかと言う。よしとは、自分で聞くと言って断った。


確かに「俺にもついに彼女っていうのが出来るんだな」という曖昧な期待に高揚感を募らせた時期もあった。今まで特定の女の子とここまで根気よく話した事など無かったから、これは彼女になる流れで間違いないだろうと思ってはいた。


その一方でどんな結果になっても受け入れる覚悟はあった。りおの勉強に対する姿勢も、周囲への優しさも好きだった。情報では小説家という夢もあるようだし。この友情と尊敬で構成される感情を、それに矛盾しない自分を、確かに持っていればそれがゴールでもあると思えていた。