第7話「デートみたいですね」

2022年6月17日。世間は、所謂梅雨入りで、雨の日が多くなっていた。今日は金曜日だ。今週は月曜日から、今日までずっと雨だった。

教室棟2階は2年生の教室がある。神楽りおのクラスは、長雨でどこか鬱蒼とした空気が出来ていた。昼休みに漫画を読む生徒は増えた。晴れていれば、学校の近くのコンビニや、外の自販機などへ、なんとなく出向く生徒は多い。


田原えみかは、

「神楽さ~ん。私達吹奏楽部は~、今日も野球部と廊下ですれ違うの~」

と言う。えみかは、りおよりも背が低く、雨の日に校内をランニングして走ってくる野球部が真剣に恐怖なのだと言う。


横山みずきが、

「バレー部は活動場所は体育館だから、野球部とカチ合う要素ないよね?」

と言って、前田よしとに話かけた。


よしとは、

「あぁ!体育館の部活はなんとも思ってないな、長雨」

と言う。


「長雨じゃないよ、野球部のランニングだよ。えみかの話、聞いていたのか?」

「いや!聞いていない!」


えみかが哀しそうにすると、りおがなぐさめた。


よしとは、横をすり抜けていくと、廊下に出た。

廊下には、1年生の浦川辺あやが立っていた。


よしとは、

「浦川辺さん!1年生なのに2階に来て、誰かに御用ですか?」

と言う。


あやは少し驚き、

「前田先輩」

と言うと、

「りお先輩、教室にいますか?」

と尋ねてきたのだった。


あやは、携帯電話を右手に握りしめていた。

よしとは、教室にいるりおを呼んだ。


「神楽~!後輩!」


それを聞いてりおが廊下に出る。

よしとは、そのまま廊下を歩いて行った。


「あやちゃん。どうしたの?」

「りお先輩」


雨の音が、廊下の窓をつたって、聴こえてくる。

雨粒が、たまに窓に弾ける。


あやが話し始めた。

「連絡先とか、SNSのグループとか、4月に交換したのがあるじゃないですか。それ個人的なメッセージを沢山送っても大丈夫ですか?」


と、妙に畏まって、あやが言う。

りおの丸眼鏡の両目に、あやが一人ずつ、キラリと映る。


「いいよ!」


りおは嬉しそうに、そう答えたのだった。


「そんなことで!すみません!じゃあ、また部活でお願いします」


あやはスタスタと自分の教室へ帰って行った。あやが文芸部員になってから2カ月と少し。


カツーン カツーン


と階段を降りながら、あやは思った。


「りお先輩は、私が好きかな?」


降りる階段の踊り場を抜けて、二段、三段降りたところで、立ち止まった。


教室に帰れば、さやが待っている。


「気持ちは伝わっているのかな?」


そう思って、また階段を降りて、教室に戻った。


春から夏へ移り行く季節の変わり目の長雨。太古の昔から変わらない気象は、天の恵みでもある。あやは、自分とりおとの関係を占うような長雨に、逸る気持ちを癒して、長々と降り続くような清らかさと止めどなさに浸っていた。


あやが教室に戻ると、雛菊さやが歩み寄って、

「部活楽しみだね♡」

と言う。


あやは、

「部活は凄く楽しみだね!」

と言う。


仲の良い、あやとさや。さやは、クラスで、あやが一人にならないようにしてくれる頼もしい存在だ。あやは、成り行きで仲良くなった子だと思っていたが、同じクラスで過ごす時間は、二人の心を近づけて、愛情に匹敵する友情で打ち解け合っていた。さやは少し妄想が爆走しているが。


「あやちゃん♡雨の匂いが好きなんだね♡」


あやはりおへの好意が日増しに大きくなっていた。さやへは友情、りおへは同性愛の愛情の、小さな卵から孵ったばかりの幼体のような感情だった。


元来、人は雨がなければ生きていけない。現代は長雨を鬱陶しく感じる程に豊かで、経済力があれば生きていける。近代以前であれば天候に依存した人々の暮らしの多くが、職業や収入、高校生の彼らであれば将来にシフトして重大になった世の中だと言える。


2022年6月18日。長雨が終わり、午前中は曇りだったが、昼過ぎから晴れ間が出てきた。土曜日の午後。浦川辺家は、長空駅から二駅離れた駅の徒歩10分程度の所にある。あやの母親は、浦川辺みちよと言う。


「あや。ちょっといいかしら」


みちよは、話しかけ方が幼少期から、それこそ、あやが子役の頃から、全く変化がない。


「はい~?」


と返事をする、あや。


「私、また観音寺さんの所に行ってきたのよ」


芸能界の話だ。みちよが、あやの芸能界復帰に向けて個人的に接近している「観音寺芸能プロダクション」に、また行ってきたと言う。あやは名前くらいは知っていた。


「へ・・・へぇ~」


あやは、みちよに頭が上がらない様子で、この手の話題はなんとかやり過ごそうとする。芸能界に戻る気は、これっぽっちもない。


「貴方さえ良ければね。土下座くらいしてあげるんだからね?戻りたかったらいつでもお母さんを頼るのよ!」


つまり、今は芸能界を離れてブランクのあるあやが「再び芸能界に戻りたい」と言うのであれば、みちよが観音寺芸能プロダクションに頭を下げて、道を開くと言うのである。


「観音寺さんは凄く度量の広い、人情味の有る方で、ブランクもあって、本人が見に来ないにも関わらず、必ず時間をつくって母親に過ぎない私と面談してくれるの!」


「それは・・・うん・・・よかったですね」


「あなたは本当に、自信がなくて・・・」


「じゃ、じゃあ・・・今日は・・・勉強をするから勘弁してほしいな」


そう言って、あやは上手くやり過ごしたのだった。


あやは、自室に籠り、勉強机に、とりあえず向かう。


「・・・自信がない」


階段が、どこまでも伸びていると思えなくなったとき、人は踊り場で立ち尽くすようにできているのだと知っている。


あやは、りおの書いた小説を一度読ませて貰ったことがあった。りおの小説を読ませて貰った時「なんでこんなに書けるようになったんですか?」と聞いたら、りおは「プロ志望です!」と誇らしげに言った。


あやは、


「もしかして私は、甘いんだろうか。生きるってことに」


と思った。


登ろうと思って、登った階段で、生きていくことは、皆同じだということもなんとなくわかる。役者と言っても様々な活動があり、活躍も様々なのだ。だから小説家も同様で、様々なレベルやランクがあって、自分の身の丈と割り切って、階段のどこかに居座って暮らしていくのであれば、それがプロに必要な精神ではないのかとも思えるのだ。つまり小説家を威風堂々目指しているのであれば、それはそれで十分な精神なのではないか。ただ、あやの場合は、そもそも幼稚園の頃に決めた階段だったから、人生の選択肢という考え方もした。もともと芸能活動をする生徒の多い私立堀川学園中等部にいたが、高校は公立の進学校である長空北高校を選んだ。


意を決して、あやは携帯電話を手にした。


「りお先輩。相談したいことがあります。長空駅で会えませんか?」


あやは、りおにメッセージを送った。りおが二つ返事で了承すると、あやは嬉しそうに私服を着替えたのだった。これから二人で長空駅で会う。


玄関でくつを履くと、リビングの扉が開いて、みちよが玄関へやってきた。あやは文芸部の先輩に会うことを伝えると、みちよは女子であることを確認してから許可した。あやは彼氏を作ることは禁じられていた。理由は父親の仕事上のステータスも関連しているが、息災なく高校生活を送って大人になってもらうために必要な事だとされていた。あやも女性同性愛者として、そのような家庭のルールは苦痛ではなかった。


あやが長空駅に着くと、りおが改札口を出た所で待っていた。


二人の目が合う。


入学式の日に、はじめて会ったとき、あの時間が止まったような感覚が蘇る。


りおの半袖のブラウスが、学生服とは違った色合いで、綺麗だった。


大きな丸眼鏡の奥に、優しい瞳がある。


あやは、小走りで、改札を抜けて、りおに走り寄った。


あやが「突然ごめんなさい」言うと、りおは「いいよ」と微笑む。


そして、りおの手が伸びてきて、あやの手を握った。


「いいよ。公園行こう」と、嬉しそうに言う。


あやは、胸がボウッと熱くなっていくのを感じた。


「はい!」と、あやが元気よく返事をすると、


りおは「少し歩くよ」と言う。


あやは「デートみたいですね!」と言った。


そんな冗談にまかせて、手を、繋いだまま。


あやは、公園までの道で、ほとんどの悩みを打ち明けた。


りおは、

「私なんて、小説家になりたいという気持ちだけで、良くも悪くも、レベルとかランクとか、そういう考え方をしていないよ」

と自分を語った。


あやは、思った通りの答えに心の中がスッキリしていた。


学校の外で過ごす二人の時間。


指先が、教えてくれた。


これから日が落ちる公園に、まだ水溜まりがある。


大人びたりおの幻影から、子どもじみたりおが飛び出して、あやの心に描かれていく。


りおは、


「これ制服みたいだねって、お母さんに言われたんだ。変かな?」


と言う。着ているブラウスのことだ。制服とは違い、胸元にフリルがある。りおは、自分の容姿が、あやの容姿に敵うわけないとして、せめて二人で歩いても恥ずかしくないようにと思うのだった。


あやは「可愛い!」と言う。


ベンチがまだ濡れている。


あやは、りおのブラウスのフリルに手を伸ばして、触れた。


そのまま、りおのおでこに鼻先を近づけて、目を閉じた。


りおは慌てて、


「で、でーとみたいですね!じゃ!ないでしょう!」


とあやに言った。


突然の事で、驚きが湧いてきて、後から好意を寄せて貰えた高揚感が追いかけて来た。


指先が、教えてくれる。


目を閉じたまま、あやの心臓の音は速く、


「気持ち・・・」


と、自然と、そんな言葉の器用さが生まれて、口から出た。


りおは戸惑いながら、


「気持ちなんだ、そっか」


と言った。


あやは、まるで溶けるような胸の熱さのなか、


「仲のいい女の子二人です」


と言った。


恥じらう事のない胸の高鳴りを、受け止めて貰える幸せは、愛情の大小に由来せず、真っ白な世界を連れて来る。


りおは、


「うん」


と言った。このまま二人で、気持ちを確かめ合うための時間が待っているような、そうではないような予感の曖昧さが、むしろ、小さな感情を壊さないようにしてくれていた。要求の無い愛情の幼体だった。