第3話

「・・・しゅ、沈宗主・・・沈楽清宗主!」

急に耳元で自分の名を呼ばれ、沈楽清の身体はビクッと跳ねあがった。

声につられて目を開けたが、視界の先がゆらゆらしており、身体もまるでしびれたかのように全身がジンジンしている。

体調不良になったことが片手で数えるほどしかない沈楽清は、こんなふうになったのは初めてで、その慣れない感覚に戸惑った。

(自分は、朝起きて、それから、美玲姉の部屋で・・・?)

頭がぼーっとして思考が追い付かない沈楽清は、「宗主?」と再度呼ばれて、ゆっくりと声がした方へ顔を向けた。

その目の中に、美しいがどこか胡散臭そうな青年が映る。

「宗主!ああ、よかった。来たら倒れてたんで一体何があったのかと。心配しましたで。」

右目とモノクルの中の左目のエメラルドグリーンの瞳が優しく細められ、緊張していた頬が緩み、形の良い唇が弧を描く。

まるで芸能人のような甘いルックスの男に、この至近距離で優しく微笑まれたらきっと誰だって好きになってしまうだろう。

しかし、沈楽清の中ではこの人物に対する警戒心は解けなかった。

なんというか、非常に偽物っぽい。

「・・・誰?」

警戒したまま硬い声を出す沈楽清に、目の前の男は目をぱちくりさせると瞬きを繰り返した。

「誰って・・・さすがに自分の側仕えの顔を忘れるのはえげつなくないですか?」

「えげつ・・?」

「酷いっていう意味や。」

男のまるで聞いたことが無いしゃべり口調に戸惑った沈楽清は、一体こいつはどこの国の人なんだろう?と頭を悩ませる。

ジュニアユースやユース時代に他国の選手とも交流はあったが、こんな口調の人間など見たことが無い。

「・・・倒れていたところを助けてくれて?ありがとうございます。」

「いやいや、むしろ許可なく私室に運んでしまってすんません。」

「俺を部屋まで運んだんですか?!それは重かったでしょう?ほかに何人で運んだんですか?後の人にもお礼を言わないと!」

男の発言に驚いた沈楽清はがばっと寝台から起き上がると、周囲を見回し、他の人間がいないか探したが、周囲にはこの男以外の姿はない。

自分は、身長は185cmもあるし体重も90kg以上ある。

従姉の言葉を借りれば「ゴリマッチョ」な体型の男を、従姉の部屋から自分の寮まで運んだとなるとその労力は計り知れない。

しかも、自分の寮はエレベーターがなく、8階まで階段昇降しなくてはいけない造りだ。

安いし、筋トレにちょうどいいと選んだ寮だったがこんなところで裏目に出るとは・・・

さすがに申し訳なさ過ぎて、それまで彼を胡散臭い奴だと警戒していた沈楽清は、自分の態度の悪さを改めようと慌てて寝台の上で正座をすると深々とその頭を下げる。

「本当にありがとうございました。てっきり医務室か病院かと思っていたので。」

「そんな大げさな!あんたくらいなら誰でも一人で運べるし。」

「む、無理ですよ!貴方みたいな細い人がどうやって俺を運ぶんです?!見てください、ほら、手ですら貴方の倍は・・・」

ずいっと右腕を出して、その男の腕を掴むも、自分の手がその男の腕を掴みきれないことに沈楽清は驚愕した。

(嘘だろ?俺、バスケットボール片手で掴めるのに、なんでこんな細い奴の腕が全部つかめないんだ?!)

どれだけこいつはでかいんだろうと思い、寝台の横で膝立ちの姿勢のまま困った顔をしている男の全身を頭の先から足先まで見回したが、どう考えても自分より全体的に一回り小さい。

ぴょんと寝台から飛び降りた沈楽清は、その男に自分の横に立つようにお願いする。

訳が分からないまま沈楽清の言葉に従った男は、なんとも言えない表情を浮かべながらも、沈楽清の前にまっすぐ立ってくれた。

「・・・これでええ?」

「うん!」

寝て見ていた時は自分より小さいと思っていた男は、こうして隣に立ってみると実際は自分より数センチ高く、体格も自分より横幅があるように見えた。

平凡な顔でゴリマッチョな沈楽清は、男の身体を思わずぺたぺた触り、ついでにあちこち覗き込んだりした後、思わず相手に抱き着いてキラキラした瞳で相手を見つめた。

モノクルのせいかまるで学者のような知性を感じる美しい顔に、筋肉質で引き締まった美しい身体。

(なんて羨ましい!)

「あんた、身長何センチ?体重は?すごいなぁ、細いのに胸板あるし、腕とか足とかの筋肉はほどよくあるし!なにより俺を運べるなんて本当にすごい!どうやって鍛えたらこんな綺麗な身体になれるんだ?教えてくれないか?」

自分が理想とする体型の男に出会って喜ぶ沈楽清の奇行に、その身体を強張らせて、それでも文句も言わずにされるがままになっていた男は、子犬のように無邪気な瞳で自分を見つめてくる沈楽清に対し、無言のまま優雅ににっこりと微笑んだ。

その笑顔に殺気を感じた沈楽清は抱き着いていた身体を離してその男から距離を取ろうとしたが、時すでに遅く、そのまま足を取られて寝台に倒れこむ。

一体どこに隠し持っていたのか、男は剣を取り出すとすらりと鞘から抜き、その切っ先を沈楽清の喉元に一切迷いのない動きで押し当てた。

生まれて初めて真剣をこんなに間近で見た沈楽清は、喉にあたる冷たい感触とかすかに走る痛みにヒッと小さく悲鳴を上げる。

「もう、気は済みましたん?」

「ご、ごめんなさい!決してセクハラとかじゃなくて、ただ純粋に興味が・・・」

「別に怒ってこんなことをしとる訳やないですよ?さて、あんた。あんたは誰ですか?」

なおも変わらない優しい笑顔と穏やかな口調のまま、右手はその剣先を沈楽清の首元でわずかに動かして、その度に首に小さな痛みを走らせてくる。

明らかにこのような状況に手慣れている男に、沈楽清は恐ろしさのあまり声を出せなくなった。

わずかに自身の首から出血しているのを感じたが、払いのけることも抵抗することもできない。

(今、動いたら殺される)

本能で分かった沈楽清は、口の中がカラカラに乾いていくのを感じ、ごくりと唾を飲み込んだ。

「ちゃんと喋ってくれへんと、あんたに痛い目にあってもらわへんといけなくなっちゃいますよ?せっかく綺麗と褒めてくれましたし、あまり子ども相手にえげつないことはしたくないねん。もういっぺん聞きますわ。あんたはどちらさん?宗主はどこや?答えによっては容赦しぃひん。」

その柔和な笑顔を消し去り、冷たい殺意を込めた目で沈楽清を睨む男に、沈楽清ががくがくと震えながら、それでもなんとか声を絞り出す。

「・・・お、俺は・・・俺は、沈楽清。」

「沈楽清?」

「う、うん・・・18歳、大学1年で、教育学部で、将来は体育教師になりたくて・・・」

「・・・大学・・・?」

「今日は、従姉を起こしに、行って、そこで・・・」

そこで何があったのかが何故か思い出せない沈楽清は言葉に詰まるが、それでも何も嘘はついていないと訴えるように相手をキッとにらみつける。

しばらくにらみ合いが続いたが、やがてふぅとため息をついた男がその剣をひき、ゆっくりと鞘へ納めた。

「ゆ、許して、くれるの?」

「・・・あんたは嘘をつける人間のようには見えへん。」

なおも警戒して声が震える沈楽清に対して、男は、それに、と話を続ける。

「この剣はあんたの剣・恒心や。あんたが『沈楽清』である以上、この剣でその主を傷つけることはでけへん。実際に何度刺そうとしても刺されへんかったから、その身体が『沈楽清』であることに間違いはあれへん。」

「・・・」

沈楽清は男の説明で分かったような分からないような気になりながらも、この剣のおかげで助かったという事だけは理解をした。

ぽいっと投げられた剣を受け取った沈楽清は、その剣に感謝しながらぎゅっと身体の前で抱きしめた。