第5話

キィン、キィン・・・

屋敷の裏の森から激しい剣戟が何度も響き渡る。

「ハッ!」

「ええね!そやけど甘い!」

玄肖のわずかな隙をついて剣を繰り出した沈楽清を、ひらりとたやすくかわした玄肖は、攻め込んでしまって油断が生まれた沈楽清の剣を自身の剣で弾き飛ばす。

ガキンと鈍い音がして剣が遠くに弧を描いて飛んでいくのを横目に見ながら、自身も思い切り蹴り飛ばされて木に激突し、その場に転がった沈楽清は、「くそ~、また負けた!」と悔しがった。

「いえいえ、お見事やで。一か月でここまでになるとは驚きや。なにせ最初は剣の構え方すら知らへんかったのに。」

優雅にスタッとその場に降り立った玄肖は、沈楽清の所まで来るとにこにこと手を差し伸べる。

そんな余裕たっぷりの玄肖の手を取り、立ち上がった沈楽清は飛ばされた剣を拾いにいくと、再度彼に向かって構えた。

「木刀では勝てるときもあるけど、真剣だと一度も勝てたことが無い。勝てるまでは褒めないでください、先生。もう一度お願いします!」

「木刀でもたかが1割程度やろ?ほんまに、負けず嫌いやな!」

やれやれという表情ながらもどこか楽しそうな玄肖は剣を構えると、沈楽清へ向かって今度は真っすぐに剣を繰り出した。


一か月前。

この世界に突然来てしまって、しかも自身の身体がもやしだと知った沈楽清は、大きなショックを受けながらその日は床についた。

(もしかしたら、これは夢なのかもしれないし!)

元の自分に戻る想像をしながら眠った沈楽清の期待も空しく、翌日起きた時も身体はもやしっ子のままだったのだが。

「おはようございます、宗主!よう眠れましたん?」

落ち込んで顔を覆う沈楽清の元へ、自分の側仕えだという玄肖が朗らかな笑顔で部屋を訪れる。

「おはよう、ございます。玄肖、さん。」

「あんたの方が立場は上やから、敬語も敬称も無しでええて。」

その手にはお湯の入った桶と何枚かの手拭い。

湯からは良い香りが立ち上り、そのやや甘い香りに沈楽清は癒される。

「熱かったら言ってください。」

今から何が始まるのか分からず、玄肖に言われるがまま長椅子にちょこんと腰かけた沈楽清に対し、玄肖はその隣に座ると慣れた手つきで沈楽清の頭と髪を洗い、手拭いで水滴を拭くと、仙術で髪を乾かす。

ゆるやかな癖のある髪を櫛で梳いてもらい、さらに綺麗に結い上げてもらった沈楽清は、あれだけ豊かな髪が、どうやってこの頭の上の小さな白い飾り箱に納まっているのかさっぱり見当もつかず、おおっと感動して声を上げた。

次いで、玄肖は彼の身体を拭こうとその寝間着に手をかける。

「じ、自分でやるよ!」

「そうですか?」

あっという間に上半身を脱がされて羞恥心を覚えた沈楽清は、身体を拭こうとした玄肖から手拭いを奪うとゴシゴシと自分の身体を拭き始める。

(この世界って、この世界って?!)

人に身体を拭いてもらったことなどない沈楽清は、玄肖の行動が全く理解できない。

側仕えの仕事とは何なのか?と訳が分からず、とにかくこれ以上相手を煩わせるわけにはいかないと、無心に身体を拭き続けた。

「あ、ごめん。着替えは・・・?」

「ここにありますよ。全部脱いだら、立っててくれれば着せますので。」

「着方を教えてもらっていいですか?!」

「はぁ、わかりました。ではまず・・・」

裸で立って着替えさせてもらうなんてとんでもない!と頭を振った沈楽清は、玄肖の指示で下衣、中衣、上衣の順に服を着ていく。

着崩れていたり、曲がっているところを玄肖に修正してもらいながら、それでも5分ほどで服を全て着替え終えた。

幾重にも重なる衣装に、最初はどうなるかと思った沈楽清だったが、一つ一つはシンプルな作りだったため一度着てしまえばその構造は理解できる。

これであれば明日から一人で着替えられそうだと、ホッと一息ついた。

全身ほぼ真っ白な衣装に、さらに白いブーツを「どうぞ」と言って渡された沈楽清は、自分の服とよく似た形の黒い服を着ている玄肖をじっと見る。

「俺もそっちの服のがいいなぁ。汚しちゃいそうで怖いんだよね、白って。」

昔からサッカー漬けで、常に泥だらけになってきた沈楽清は、白い服を一枚も持っていない。

小学生一年生の頃、沈楽清はおさがりでもらった白い短パンを一日で使い物にならなくなるほどどろどろに汚し、母親から雷が落とされたことがあった。

今ならば貧乏でお金に困っていた沈家で、母親が自分に対してどうしてあそこまで怒ったのか理解できるが、当時の幼い沈楽清にはそれが分からず、怒る母親に逆切れし、自分で洗うと言って洗って、結局その服をダメにしてしまった。

それ以降、白を着るのに抵抗感がある沈楽清は、白色の服を一度も自分で買うことも貰うこともしてこなかった。

「この色は嫌いですか?」

「・・・好き嫌いじゃなくてさ、汚したら洗濯するのが大変だろうなって。洗濯機とか洗剤とかないでしょ?」

昨日、玄肖と話していて、今日から一緒に修行をすることになっている沈楽清は、この美しい服を汚してしまったらどうしようと不安になる。

それとも、先ほど髪を乾かしてくれた時みたいに、一瞬で綺麗にする方法でもあるのだろうか?

そう考えた沈楽清は、玄肖にこの世界の選択方法について尋ねる。

「洗濯機と洗剤っちゅうのは、昨日話しとった『科学』ゆうもんですか?それであればないですね。そやけど私がおんので宗主に洗っていただくようなことはありません。それに着替えはようさんあるで、ご安心を。」

事もなげに自分が洗う発言をする玄肖に、沈楽清は猛反対する。

「それは余計にダメだよ!人に洗わせるなら余計に駄目だ!汚れたら捨てればいいっていうのも冗談じゃない。服がかわいそうだ。それなら洗い方を教えて。俺やるから!」

沈楽清が、ただ洗濯が出来ないことを心配しているだけと思っていた玄肖は、彼から怒ったように反論され、その内容にわずかにその目を見開いた。

「宗主。これも私の仕事やねん。あんたの世話で給金は頂いとるんやから、その仕事を奪うようなことはなさらんとってください。」

「もちろん普通に着た洋服は任せるよ。でも特別汚してとかなら、そんなの別の話だ。自分で責任取れって話だよ。玄肖さんを苦しめるのは嫌だ。」

何を言っても自分を曲げない沈楽清に、苦笑した玄肖は「分かりました」と言って退席する。

しばらくして戻ってきた彼の腕には彼と同じ洋服が一式そろっていた。

「今日は私の服ですんません。今度きちんと何枚か用意します。汚れるような事をする時は着替えてや。そやけど、普段はその衣装でお願いします。あんたは「天清神仙」。その衣装はその象徴のようなもんですので。」

白い服を着ることが宗主の仕事と言われた沈楽清は、それであれば仕方がないと身体を動かす時だけ着替えると玄肖と約束した。


一か月前はそんなやり取りをした沈楽清と玄肖だったが、元々運動神経抜群な沈楽清は、あっという間に『沈楽清』の身体の使いこなし方を覚えると、それ以降は何をする時でも白い服を着ていても支障がない日々を過ごしていた。

「宗主、今日はどの修行をしますか?」

「ん~今日も弓がいい。昨日、1回しか的の真ん中に当たらなかったから。今日は連続で当ててみせる!」

「宗主、今日はどうしますか?」

「今日は本を読むよ。この世界の事、早く覚えたいし。」

主な修行は剣術や弓術、仙術、体術、学問。

現実世界で大学生であった沈楽清は、主要五教科など様々なことを学校で勉強してきたが、この世界では何一つ通じず、全て一からやり直しの日々を過ごしていた。

「気の使い方も上手くなってきましたし、御剣してみますか?」

ある日、玄肖に唐突に言われ、言われるがまま剣の上に立った沈楽清は、ふわりと身体が浮く感覚に驚いてしまい、そのまま落ちて地面に転がってしまった。

「いたた・・・」

「初めてはそんなもんです。さぁ、立って。絶対に出来ますから。」

玄肖の言葉通り2回目からはその浮遊感さえ慣れてしまえば、自由自在に空を飛べる御剣は本当に便利で、沈楽清はこれが一番お気に入りの修行になった。

沈楽清の今の身体は、もともと筋肉がつきにくい体質なのか、どうあがいても筋肉が育つことがない。

筋肉が大好きな沈楽清としては、その部分はとても残念だったが、それでも軽くてしなやかな身体は素早い動きが取りやすく、前の自分よりも高く飛んだり跳ねたり出来る。

何より、この身体はどれだけ動いても右足が痛くならない。

最初は『もやし』と思っていたこの身体に感謝しながら、沈楽清は玄肖と共に毎日修行や勉強に励んでいた。


なんでもオールマイティーにこなし、誠心誠意自分に仕えてくれる玄肖はというと、修行中は人が変わったように非常に辛辣でスパルタだった。

しかし、出来るようになると手放しでほめてくれる。

「すごいですね。流石です、宗主。」

そう言って笑顔で頭を撫でてくれるのだが、その表情は本当に心から喜んでくれていると沈楽清が実感できるくらい優しく、あたたかなものだった。

普段は少々うさん臭さを感じる彼なのに、その時だけは本心を語っていると感じることが出来る。

それが妙に嬉しくて、沈楽清は彼の師事通りに物事をどんどん吸収していった。

やればやるだけぐんぐん成長していく沈楽清に教えるのは、玄肖自身もやりがいを感じており、ついつい期待を込めて厳しく指導してしまっても、それでも喰らいついてくる彼に感心し、その努力を認めていくうちに、実の兄弟かと思うほど2人の距離は近くなっていった。