第3話

外来へ降りると、そこには午後診察の患者さんが座っている。壁と柱寄りに置いてあるベンチにもたれかかり、携帯電話を触っている鈴木桜がいた。朝よりは顔色が良いようだ。安静にしているせいか、チアノーゼや息切れも起きていない。


颯太の視線に気が付いた桜が顔をあげて颯太と目が合う。桜は無表情で頭をさげた。朝と木村先生の電話の時とは印象が違う。緊張しているのだろうかと颯太は思い、笑顔で会釈をするが、桜はふいと顔をそむけた。


「鈴木さん、来てくださってありがとうございます。少し待っていてくださいね。すぐに呼びますので」


桜は無表情で静かに頷き、再び携帯電話に目を落とした。颯太は診察室に入り、中でパソコンにむかい、桜のカルテに目を通している木村先生に声をかけた。


「木村先生、遅くなりました。石田君は経過順調でした」


「そうか。よかった。随分リハビリを頑張っているようだね」


木村先生は笑顔で頷く。


「それじゃあ、鈴木桜さんの経過を説明するね」


木村先生は頷き、カルテを開いて説明を始めた。


「鈴木桜さんは、ベテラン助産師さんが経営してる助産院で生まれた。妊婦検診も、ほとんどそこで受けていたんだけど、その時代はまだエコーを導入していなかったのか…詳細は不明なのだけど、心室中隔欠損を見逃されてしまった。そして、妊娠9ヵ月後半に早期胎盤剥離によってお母さんが亡くなり、お父さんが桜さんを育ててきたんだ」


「早期胎盤剥離ですか…」


早期胎盤剝離とは、妊娠中、赤ちゃんの成長に必要な酸素や栄養をお母さんの体から運んでいる胎盤が、出産前に何の前触れもなく突然剥がれ落ちることだ。前触れがない事が多く、大量出血とともに突然起きるので、応急処置が間に合わず母子ともに命の危険を伴う非常に危険なものだ。

母親が命を落としたほどの状況であれば、桜が助かったのも奇跡に近いのだろう。

颯太は木村先生の説明に耳を傾けた。


「生後3ヵ月の時、激しく泣いたときにチアノーゼが出ることに気づいたお父さん方の祖母が桜さんを病院へ連れて行ったんだ。その時に心室中隔欠損が見つかった。そして、生後10か月の時に手術を受けたんだけど、その過程で肺動脈狭窄、大動脈騎乗、右心室肥大のファロー四徴症が確認された」


木村先生はカルテを指で示しながら続けた。


「しかし、肺動脈狭窄は軽度だったため、経過観察という形になったみたいだね。その後、半年に1回ずつ定期検診を続けて、今に至るって感じかな~」


颯太は深く頷いた。


「ありがとうございます」


「じゃあ、鈴木桜さんを呼ぼうか


颯太は頷き、診察室の扉を開けて桜を呼んだ。


「鈴木桜さん、お待たせしました。どうぞお入りください」


桜は颯太の声に顔をあげ、携帯電話をバッグにしまうと、ゆっくりと立ち上がった。たちあがってから、ひとつ深い呼吸をつき、診察室に入った。診察室までおよそ2m。桜はわずかに呼吸が苦しそうな仕草がみられている。


「桜さん、急にきてもらってありがとう。早退したんじゃない?ごめんね」


木村先生は桜に微笑みかけた。桜は診察室に入った時からにっこりと笑顔を作り、木村先生の前の椅子に座った時には、穏やかに微笑んでいた。やはり廊下での睨むような、無表情は見間違えだったのだろう。


「いえ」


桜は短く返事をする。


「綺麗なネイルをしてるね。すっかり年頃のお嬢さんになったな。ところで、体調はどうかな?」


木村先生が聴診器を取り出して心音を確認する。桜は「特に変わりないです」と答えるものの、木村先生は聴診中に何かを感じたのか、しばらく黙っていた。


「神崎先生にも聴診させてほしいんだ。桜ちゃんのことをとても気にしていたからね」


と木村先生が微笑みながら言うと、桜は少し緊張した様子で「どうぞ」と答えた。

その時、木村先生の院内ピッチに着信が入った。


「うん。堂本さん?わかった。すぐ行くよ」


循環器病棟に入院している堂本さんという患者さんのことで呼び出されたらしい。


「ごめん。緊急の呼び出しだ…すぐ戻ってくるけど、神崎君が話を聞いていてくれるかい?桜ちゃん、ごめんね」


木村先生は桜ちゃんにごめんとポーズをして、颯太に椅子を譲り、急いで去っていった。

颯太は桜に向かって優しく微笑んだ。


「今朝も会ったけど、改めて、神崎颯太です。よろしくお願いします。じゃあ、僕が聴診するね。リラックスして」


颯太が改めて桜を見ると、木村先生の時とはうってかわって、無表情…いや、むしろ不機嫌な表情を浮かべている。

主治医の木村先生がいなくなったのが不安だったのだろうか。それとも颯太が嫌なのか…色々考えてもしかたがないと考え直し、聴診の音に集中した。

心雑音が聞こえる。その音が小さくなったり大きくなったり聞こえなくなる時間もある。これは右室から肺動脈への血流の通路が狭くなっている時に聞こえる音だ。


「…最近疲れやすいって感じることはないかな?胸が苦しくなったり、息切れしたり…」


「別に」


桜は不機嫌な表情のまま言った。


「でも…少し歩いたら疲れるような症状が…」


颯太が言いかけたところで、桜がかぶせるように言った。


「ないってば!」


突然の大きな声に桜自身がは戸惑う。17歳の多感な時期の少女だ。颯太の言いかたが悪かったのだろうか?颯太が固まって動けないでいると、桜が颯太をきっと睨んだ。


「余計な事しないで!」


桜は怒って立ち上がった。

しかし、突然のことに桜は貧血を起こし、その場に座り込んでしまった。颯太はすぐに駆け寄り、彼女を支えた。


「鈴木さん!大丈夫?!」


颯太はあわてて声をかけた。

桜は弱々しく頷いたが、目は固く閉じられており、顔面蒼白。立ち上がる力はないようだ。颯太はすぐに外来看護師を呼び、協力して桜を処置室に運びベッドに寝かせた。


「もう一度、脈と血圧、心臓の聴診をさせてね」


颯太はできるだけ優しく話しかけた。そして、脈を取り、血圧を測った。血圧がさっきよりも低めだが、心雑音はかわりない。颯太は再び桜の傍に座った。桜は気まずいのか、颯太と反対の方を見つめながら、唇をかんでいる。


「僕が木村先生に、今朝のことを言ったのが気に食わなかったのかな…?」


颯太が問いかけたが、桜は黙っていた。颯太はしばらくの沈黙の後、静かに言った。


「勝手なことをしてごめんね」


しかし、桜は無視するかのように視線を逸らしたままだ。颯太は深呼吸をしてから続けた。


「僕も母親と二人暮らしなんだ。中学生の頃から2人で暮らしてる。だから…なんとなく鈴木さんの気持ちもわかるんだけど…お父さんに心配かけたくないのかな?」


桜はしばらく黙っていたが、やがて投げやりな口調で言った。


「そんなんじゃない。あの人は私には興味ないの。母親を殺した娘くらいにしか思ってないわよ!」


その言葉に颯太は驚き、何も言えず黙っていた。


「桜ちゃん、大丈夫?!」


そこへ木村先生がパタパタと入ってきた。颯太は立ち上がって木村先生に報告した。桜は木村先生が入ってくるとまたにこりと笑顔になり、木村先生に会釈をする。どうやら、不機嫌な顔は颯太の前だけらしい…。


「立ち上がった時に立ちくらみでめまいを起こしたみたいです」


木村先生は桜の顔色を確認し、心配そうに言った。


「桜ちゃん、念のために検査入院をしよう。このまま入院してほしいんだ」


桜は即座に拒否した。


「いやです。入院なんてしたくありません」


しかし、木村先生は引かない。


「桜ちゃん、このままだと大変なことになる可能性もあるし、他の検査もしておきたいんだ。何も異常がなければ今週末には退院できるから。ね?」


桜はしばらく黙っていたが、木村先生が説得を続けると、しぶしぶ頷いた。


「わかりました。でも、お父さんには電話しないでください。あの人、今出張で外国に行ってるから、意味ないと思います」


木村先生はきっぱりと断った。


「桜ちゃん、それはできない。お父さんには連絡しないといけないよ。緊急じゃないことも説明するから大丈夫。ね?」


桜は木村先生のきっぱりとした言葉と、拒否しても無駄だとわかったのか、ため息をつき、短く「…はい」と頷いた。


「ありがとう、桜ちゃん」


木村先生は優しく微笑んだ。その横で桜はうつむき、深くためいきをついていた。颯太は、桜を観察しながら、もやもやと心に霧がたちこめるのを感じていた。


その日、桜は循環器病棟へ入院となった。