ああ、ようやく死んでくれた。
両親から自分を買って、毎日愛でてきていた老人の死の知らせを聞いて、
あの枯れ木のような手で、舐め回すように触られることがようやくなくなる。「お前の黒い髪は艶やかで美しい」と言われながら口づけられることもない。豪奢で趣味が悪い家具に囲まれた自身の部屋で、杏花は内心ほっとしていた。
「……杏花様?」
しゃがんでいる下女に名前を呼ばれ、杏花は現実に戻ってきた。
「ごめんなさい、続けてちょうだい」
杏花は下女に話の続きを促した。すると下女は軽く頭を下げてから、再び話し始めた。
「つきましては、冥婚のご衣裳を決めていただきたく」
冥婚。亡くなった者と永遠に婚姻を結ぶために、生きたまま埋葬される儀式だ。
あの老人がすべての愛人に『冥婚をして共にいよう』と言っていたことを思い出す。10人以上いる愛人と本気で冥婚する気だったのか、と強欲さに杏花は内心呆れていた。
(あんなジジイと冥婚なんてごめんよっ。ようやく解放されたのに。なにか、なにか……)
杏花は冥婚を回避する方法を探した。かつてないくらい頭が働いている。
ふと姉を思い出す。黒く、長い髪で葉の形の髪飾りをつけていた、上品な身なりの姉を。
姉は生まれつき仙人の術を使える、【
姉は霊峰ではなく、家にいた。本人の認識はどうであったかはわからないが、両親のために金を生む存在となっていた。
両親と姉の周りが潤い、【生】ではなかった杏花は家事すべてと、両親の身の回りを整えること、家畜の世話もしていた。それでいて食事は両親の残飯が1日に1度あるかどうか。
昔は姉と話すこともあったが、あるときから突然睨んだりきつく当たられたりした。
そうだ、姉のようになれば、仙人になればいいのだ。
「私、仙人になろうと思っているの」
「え、仙人に、ですか? そのようなお話はなにも……」
下女は目を丸くしていた。
仙人は多くの人間から尊敬される存在だ。そのため仙人になる、と言って止める者はいない。むしろ喜ばれる。杏花は必死さを隠しながら、下女に嘘の説明をした。
「旦那様にはお話していたの。けれど本当にこの間のことだったので、まだ誰にも話していなかったのかも。なので冥婚はできないわ。悪いけれど、道院への牛車を用意してちょうだい」
道院は仙人になる修行をするための施設だ。仙人希望の者は男女関係なくすべて道院に集める。多くの道院は町から離れた場所にあり、移動に牛車を使うことが多い。
「しょ、承知いたしました」
下女は一礼すると杏花の部屋を出ていった。
杏花は座っている椅子にもたれ、長く息を吐いた。さて、これからどうするか。道院に入ってしまえば、愛していない人間から不快な感情を向けられることはないが、自由な生活はほぼ不可能だろう。
(そうはいっても自由だったことなんて、なかったか……)
家にいたころは両親の機嫌が悪ければ殴られ、姉からはよくわからない因縁をつけられた。
両親が初めて笑顔を向けてくれたのは、老人に売られた日。どうやら大金となったようだ。10歳のころだ。5年経った今でも夢に出てくることがある。
老人の屋敷に来てから、衣食住に困ることはなかったが、どんどん心が擦り減っていくのがわかった。欲を含んだ目と手つきが、これほど不快になるとは知らなかった。幸いにも体の関係はなかったが—というか老人の身体上できなかったが—最初のころはよく嘔吐したものだ。
ならば今さら、自由を求めなくてもいいだろう。それに本当に仙人になれた場合、霊峰で静かに暮らすことができると聞いている。そう考えると自分の判断は間違っていないような気がしてきた。
(それにもし道院に行かなかったとして、牛車の御者から漏れると厄介だもの。それなら本当に仙人を目指したほうがいい)
杏花は椅子に体を預けたまま、そっと目を閉じた。
下女が再びやってきたことで、杏花は眠っていたことに気がついた。
「杏花様、お召し物を替えましょう。荷物もお包みますね」
「荷物はいいわ。仙人になるんだから、たくさん物があっても困るでしょう」
老人から与えられた物を持っていきたくない杏花は、そのように下女に命じた。下女も「承知いたしました」と素直に頭を下げた。下女に着替えを手伝ってもらうのも、これで最後だろう。
体の曲線がはっきりと見える薄手の服から、肌が見えないものに着替える。久しぶりの厚手の生地に、杏花は泣きそうになった。外に出られるのだ。老人は杏花を含めた愛人を、屋敷の外に出さず、いつでも好きなときに愛人たちを愛でるために薄手の服しか与えなかったのだ。
服の生地は絹。鏡の前にいる、目と同じ淡い水色で絹の服をきた杏花はとても上品に見えた。すると扉が叩かれた。入ってきたのは別の下女だ。
「牛車の用意ができました」
「ありがとう。あなたたちにもお世話になったわね」
下女2人はその場でしゃがんで一礼した。杏花は下女たちに微笑んでから、牛車のもとへ向かった。
牛車はゆっくりと町の中を進む。人間と獣人が行き交う道を窓から眺める。この
(ああ、こんなにも外の景色がすてきに感じるだなんて)
家の敷地の外から出られなかった5年間、壁の向こうへ飛んでいく鳥の目を貸してほしい、と思うこともあった。蝶のように、捕まえようとする手をすり抜けたいと思ったこともあった。あの屋敷から出たいという願いが、ようやく叶ったのだ。
牛車に乗り、夜になれば宿に泊まるという生活を続けて5日。昼間にようやく道院にたどり着いた。牛車を降りた杏花を最初に出迎えたのは、長い長い階段だった。
100段以上あるだろう階段を、運動してこなかった体でなんとか休み休み上がりきると、1人の男性に出迎えられた。年齢は30代くらいだろうか。長い髪を1つに結っている。
「お疲れ様でした。よくぞいらっしゃいました。さあ、こちらへ」
杏花は男性についていく。すると大きな建物に案内され、金の像の前に座らされた。
「それでは、これから仙人になる修行の流れを説明いたします」
男性からの説明は細かかった。呼吸法から歩行法、食事の方法、煉丹術と呼ばれる術など、数多くのことを習得する必要があると言われた。
「一朝一夕でできることではありません。命を落とす場合もあります。それでも仙人を目指しますか?」
「はい」
男性が杏花を観察するように見ている。杏花は唾を飲む。
「それでは部屋を用意します。早速今日の夜から修行を始めてもらいます。そのあいだに敷地内を案内しましょう。ついてきてください。ああ、名乗り忘れていました。私はこちらの管理と指導を任されている、
「杏花です」
「では杏花さん、行きましょう」
杏花は痺れる足を引きずりながら、張静についていった。
用意された部屋の寝台は老人の家で使っていたものより硬そうで、家具もタンスと文机があるだけだった。どの家具も簡素で古そうだ。杏花は慎重に寝台へ横になる。想像していたよりは柔らかい。
(仙人になって、静かに暮らしてやるんだから)
杏花は体を休めるためにゆっくりと目を閉じた。