信号

 青空を見たい。緑の木々を目にしたい。そんな願いを抱く者は少女が生まれた時代には誰一人として存在しなかった。


 停滞と維持の時代と評すべきだろうか。全員が与えられた義務を果たし、享受される生を謳歌する。イブの脳に残る最古の記憶は白い空間と、灰色の通路を行き交う白衣を着た人の波。子供の手を引き、大きくなった腹を擦る男女。規則や法で守られる正しい人間の姿だった。


 変化を求めなければ現状維持を望み、変わろうともしなければ停滞する時間へ何一つ疑問を抱かない。集団的自己保存の理が無意識に刻まれたと錯覚する大規模居住区は、人類最後の楽園と謳われながらも、イブの瞳には命を囲い込む牢獄にしか見えなかった。


 過去の記憶を辿り、既に死した楽園の残骸を一瞥したイブはダナンから視線を逸らし、情報端末装置へ銀翼を突き立てる。赤い火花も、煙も吹き出さない機械は銀翼から送られる操作指示を読み取ると、イブの視界へ保存されていたデータ群を映し出す。


 「ダナン、まだ貴男に青空と緑の木々を見せる事は出来ない。だけど、情報データで残された映像と画像なら見せる事が出来るわ。どう? 見たい?」


 「……」


 逡巡したダナンは小さく頷き「頼む」と呟く。少女はその言葉を聞くや否や己と青年に宿るルミナにローカルネットワークを構築し、選別したデータを機械腕へ送る。


 「家に帰ったらリルスに見せて貰うといい。まぁ……対して面白くも無いデータだけど、仕事終わりのお楽しみってところね」


 「ありがとう、イブ」


 「お礼なんて必要ないわ。けど、これからどうするの? もと来た道を戻る? それとも別の道を探す?」


 「……」


 波動砲の冷却は未だ済んでいない。もう一度外生物と実験生物の群れに襲われたら、今度こそ終わりだ。暫し黙り、考え込んでいたダナンの脳に『信号を受信。誘導を開始します』とネフティスの声が響く。


 信号だと? 他の遺跡発掘者からの救難信号か? いや、下層街の遺跡発掘者が救難信号を出す筈が無い。ありえない。信号の意味と意図に思索を巡らせ、真意を推察するダナンへネフティスは繰り返し同じメッセージを伝え、最後には『信号の発信者はNo Name。誘導伝達に従う事を推奨します』と念を押すように話した。


 従うべきか、従わざるべきか……。顎に指を当て、考え込むダナンとは裏腹にイブは「ありえない……」と呟く。


 「まさか彼? いや、彼はあの時死んだ筈……。No Name……名無し? ネームレス……?」


 「イブ、この発信者の事を知っているのか?」


 「知ってるけど……ありえないわ。だって、この名前を使う人間はもう」


 死んでいるのよ? イブの言葉にダナンの背がヒヤリと冷え、じっとりとした汗が滲む。


 死者からの信号などありえない。通常どんな場合でも緊急信号や救難信号は生存反応を発する生者が放つモノだ。機械義肢を纏っている人間が信号を発信したとしても、誤信を防ぐ為に命を失った瞬間に信号反応は遮断される。


 しかし……イブが呟いたネームレスと云う名にダナンは違和感と忌避感を覚えた。認め難い存在だと脳が拒絶反応を示し、排除するべきだと電気信号を発して忘却の彼方へ沈めようとするのだ。だが、反対に脳細胞が忘れるなと叫び狂い、取り戻せと脊髄を伝って四肢の制御を奪おうと画策する。


 ネームレス、名も無い人、名無し……。頭が割れるように痛み、ふらついたダナンはイブを視界に映す。


 「ちょっと、ダナン!? 大丈夫!?」


 身体中の、ありとあらゆる細胞に潜むルミナの蟲が蠢き、視覚と聴覚へ現実に近い幻覚を……幻に包まれた現実を、ノイズ混じりの狂気を映し出す。

 

 失敗は出来ない。イブの真横に立つ白髪の老人が、奇妙な声色でダナンへ語りかける。


 だが、失敗を視野に入れてこそ、俺の目標は達成される。老人の皺塗れの手がダナンの頬に触れ、ずるり―――と、頬肉の内側に潜り込む。


 産まれた意味を思い出せ。貴様はただの補助装置に過ぎん。故に、役目を果たせ。それが貴様の生。命の在り処。そうだろう? 脳と精神に指が這う。


 誰だ、この老人は、一体何者だ? これは現実か幻なのか? 己という個が粘液に塗れ、水のように溶け出そうとした瞬間、腹部に激痛を感じ、喉の奥から血を吐き出す。


 「ダナン!! しっかりしなさい!!」


 「―――ッ!?」


 痛みは狂気への薬と云うべきだろうか。唇を伝って流れる鮮血が灰色のタイルに血溜まりを作り、腹に突き刺さった銀翼を視界に映したダナンはイブのビンタを頬に受け、目を瞬いた。


 「俺……は?」


 「いきなりどうしたのよ! 一人でブツブツ私に話しかけたと思ったら、頭を押さえて藻掻き出して......! どうかしたんじゃないの!?」


 我に返り、辺りを見渡した青年の視界には既に老人の姿は存在しなかった。その代わりにあるものは、己が吐き出した鮮血の血痕とルミナによって塵へ変わる血溜まりの後だけ。


 「イブ……」


 「なに?」


 「お前の横に……誰か居たか?」


 「はぁ? 誰も居ないけど? 貴男……本当に大丈夫?」


 「……そうか、ならいい。問題ない」


 何時の間にか頭痛は治まり、逆流してきた胃液を飲み込んだダナンは腹を貫く銀翼を指先で叩き「これを抜いてくれ。もう大丈夫だ」溜まった息を吐き出した。


 「……本当に?」


 「あぁ」


 「……」


 半信半疑。その言葉がピッタリだろう。訝しげな瞳を向けるイブへ不器用極まりない笑みを浮かべたダナンは機械腕で銀翼を掴み、ゆっくりと腹から抜く。


 血が吹き出し、ルミナによって分解されると塵へ消え、ダナンの身体を再び巡る。荒治療もいいところだが、これで正気を取り戻すことが出来た。故に、文句の一つも言えない。青年の傷を白い線虫が覆い、ルミナの異常が確認されないと判断したイブは深い溜め息を吐く。


 「で、どうするの?」


 「……」


 「信号に従う? それとも戻る? 私は撤退したほうが懸命だと思うわ。M区画に来てからの貴男、相当可怪しいもの」


 確かにそれは否定しない。現に、ダナンの状態は非常に不安定で、不確定要素が多い遺跡では命を落とす危険性も否めなかった。


 「イブ、怒らないで聞いてほしい」


 「何よ」


 「信号を……辿ってみようと思う」


 「理由は?」


 「……勘だ」


 「勘? 馬鹿言わないで」


 「違う。お前はこの信号の主を知っているんだよな? いや、もし別人でもネフティスがこんなに強く念を押すには何か意味がある筈だ。もしかしたら……お前の計画に何か関係があるのかもしれない」


 「罠の可能性もあるわ」


 「罠だとしても……偶にはリスクを負うのも悪くない」


 「……」


 不安要素を徹底的に排除し、不確定要素を忌み嫌う青年からそんな言葉が出るとは思わなかった。驚いたような表情を浮かべるイブを他所にダナンは情報集積場の扉を開き、ネフティスが指し示す方角へ足を進める。


 No Name……信号の発信者がネームレスだとしたら、彼は何故今になって行動したのだろう。計画は失敗に終わり、既に取り返しのつかない事態に陥っている世界で何を成そうとしているのか。あの天才が……人の皮を被った機械の化身が考えている事など一切理解出来るはずがない。そう……彼を信じた父のように、イブも最後までネームレスという生命体が分からなかったのだから。


 だが、虎穴に入らずんば虎子を得ず。銃を構え、暗闇を進むダナンを追ったイブは真相を確かめるべく、銀翼に電子の粒子を纏わせ生唾を飲み込むのだった。