M区画

 生白い非常灯が朽ちた通路を冷たく照らし、重い空気に混じる古びた鋼の腐食臭が鼻孔を刺激した。


 遺跡の中層に位置するM区画と呼ばれる区域は仄暗い闇に包まれ、軋む機械の錆びた歯車と外生生物、実験動物の悍ましい鳴き声が区画の至る所から囁き響く。静かに、だが、確実に己の存在を示す脅威はM区画を進む遺跡発掘者を影から貪り、時には刃で引き裂き血肉を壁に叩き付ける。


 闇を歩み、遺跡の遺産を手にしたいと願う生者を屠るは過去の亡霊か、罪悪と欲望が成した罰の残骸か……。浅層のエレベーターから降りた先に広がるは死が蔓延した地獄の縁。静寂が齎す恐怖、命の価値を知らぬ異形の生物が跋扈する狂気の檻、殺戮兵器の駆動音が精神を掻き乱す狂気の坩堝……。ベテランの遺跡発掘者でさえも探索を忌避し、命を賭けて挑む区域。それがM区画である。


 エレベーターから一歩足を踏み出し、地面に転がった右腕を一瞥したダナンはイブへ視線を寄越し、銃を構えると非常灯の拙い明かりが点々と灯る通路を見やる。


 陽炎のように揺らめき、金属鑢と獣の鳴き声を混ぜ合わせた奇怪な咆哮。アーマーに包まれた男の胴体を貪り、臓物を鋭利な牙で挽肉にした黒い獣……影狼の番いは引き千切られた男の頭部を壁に叩き付け、飛び散った脳漿と血を啜る。


 「……イブ」


 ダナンがハンドサインで指示を出す前に、イブの銀翼が影狼の胴体を貫き、真っ二つに引き裂く。番いを殺されたもう一方の獣は死んだ獣を嬉々として喰らい、共食いに興じる。


 「ダナン」


 分かっている。死体喰らいに夢中の影狼の首をへレスで撥ね、頭を失っても動こうとする四肢がダナンへ迫る。しかし、獣の爪はイブの銀翼によって瞬時に斬り飛ばされ、がら空きになった胴体へ刃を突き刺した青年は脈動する心臓を分子レベルで破壊した。


 これ以上話す事は無い。手早く仕事を済ませ、下層街へ戻った方が身の為だ。へレスの刃に付着した黒いタールのような血を振り払い、瞼を閉じたダナンはルミナを起動すると共に、戦闘支援AIであるネフティスを呼び出す。


 『ダナン、ご用件を』


 「視覚補助と毒素分解処理を頼む」


 『了解致しました。索敵は必要ですか?』


 「頼む」


 『管理者イブと情報共有を開始します。管理者のルミナ構築をコピー……完了。ダナン、居住区で多数の敵性反応を感知致しました。人間の数は二十五。自室への案内を表示しますか?』


 面白い冗談を言う奴だ。高性能AIともなれば、遺跡の内部構造を居住区と話し、目的地を自室と例えるジョークを話すのか? ネフティスの言葉を鼻で笑い、必要最低限の情報伝達を要求したダナンは瞼を開き、暗視ゴーグルを通したかのように鮮明となった通路を一望する。


 食い荒らされた死体が二つ、干乾びたミイラが三つ、人骨が多数……。壁には大小合わせて数十もの赤茶色の手形が残されており、銃痕も確認出来る。


 「行くわよ、ダナン」


 「……」


 「どうしたの? 置いて行くわよ?」


 頭蓋骨を弾丸で貫かれた子供の骨と我が子を抱くようにして蹲る女の骨。刀剣へレスと同じような刃で胸を貫かれた人骨。外生物や実験動物の骨よりも、人間の遺骨が目立つような気がした。遺跡発掘者も多数存在し、此処で死んでいるのだから可笑しい事では無いが、誰かを守るようにして死ぬ姿にダナンは違和感を覚えてしまう。


 下層街の遺跡発掘者は誰かを守ろうとしない。偶に居てもそれは希少な存在だ。だが、こうして落ち着いて周りを見てみると、己の身を呈して何らかの脅威から他者を守ろうとする遺骨ばかり。それが何故か……青年には吐き気を催すような、後味の悪いものにしか見えなかった。


 「……」


 突如、耳元で悲鳴が聞こえた。銃撃音と慟哭が通路に木霊し、すかさず銃を構えたダナンは僅かに後方へ後ずさる。


 「ダナン?」


 イブの七色の瞳が彼を不思議そうに見つめ、視線の先を辿る。


 二人の視界に映るのは僅かな灯りで照らされた通路と、重なり合う死の象徴。人間と外生物の死体と数々の人骨だけ。そこには悲鳴を上げる遺跡発掘者も、銃を撃つ殺戮兵器も存在しない。


 「……ダナン、本当に大丈夫?」


 「……何がだ?」


 「酷い顔色よ。息も上がってるし、汗も尋常じゃない量……。体調が悪いなら戻りましょう? 無理に仕事を熟す必要は」


 「……問題無い。行くぞ」


 中層には何度も来た事がある。此処に生息する外生物の情報も、実験動物の類いも記憶している。だが、こんなにも吐き気を感じたのは初めてだ。溜まり始めた唾液を飲み込み、頭痛を訴える頭を押さえながら歩き始めたダナンはネフティスの指示に従って通路を往く。


 『ダナン』


 「……」


 『前方三百メートル先、複数の変異体反応あり、水分子結合型ナノマシンの暴走体かと。また、右左方の通路から過死性ウィルス、ネクロスに汚染された生体反応を感知しました。戦闘準備を推奨します』


 刹那、ダナンの左肩が高圧ジェットで撃ち抜かれ、透明な液状チューブに繋がれる。


 「ダナン⁉」


 血液がチューブを通り、空中に浮かんだ球体へ流れ込む。水分子を大人一人分にまで拡大したような球体は、全身を波立たせながらダナンから血を抜き取り、人間の臓物をペースト状に融解する。


 外生物―――‼ 歯を食い縛り、刀剣でチューブを断ち切った青年は両方の通路を瞬時に見渡す。


 「イブ‼ 右だ‼ 右へ行け‼」


 迷っている暇は無い。右方向の通路へ駆け出したイブは目の前に立ち塞がるウィルスに汚染された半死半生の男女を斬り飛ばし、ダナンへ放たれたジェットカッターを銀翼で防ぐ。


 高圧縮された水圧ジェットはダイヤモンドさえ両断する白の刃。銀の羽根が一枚、また一枚と貫かれ「ダナン、こっちに来て!!」青年へ手を伸ばした少女は、彼の手に握られた三つの手榴弾を瞳に映す。


 まさか―――。両耳を塞ぎ、口を開けたイブは銀翼を用いて盾を展開し、通路を覆った爆炎と轟音から身を守る。五枚ある銀翼の内、四本は既に稼働中。残った一翼を炎へ突っ込み、手榴弾の同時起爆によって重度の火傷を負ったダナンを通路の中へ引き込んだ。


 「正気!? あまりにも無謀よ!」


 砕けたアーマーと吹き飛んだ手足。焼け爛れた表皮から覗くは真っ赤な筋繊維。低く、浅い呼吸を繰り返すダナンを白い線虫が覆い隠すと致命傷を修復し、破損したアーマーや失われた手足を復元した。


 ゆっくりと起き上がり、痛む頭と眩む視界を手で覆ったダナンは「ネフティス、ルミナの蟲の稼働状況と生体融合金属、コード・オニムスの制限時間を教えてくれ」怒るイブから視線を逸らす。


 『ルミナ、全体使用率七十五%。生体融合金属、持続時間五分。コード・オニムス、持続時間一分。毒素分解処理、視覚補助、索敵機能を制限するならば発動時間を引き伸ばすことが可能です』


 「いや、いい。不要だ。手札は取っておきたい。……イブ」


 「なによ! あのね、私は命を投げ捨てる為にルミナを与えたワケじゃないの! そこんとこ」


 「お前が居たから出来た」


 「はぁ!?」


 機械腕の手指を動かし、傷が完全に塞がったことを確認したダナンは焦げたアサルトライフルを握る。


 「勝算が無ければ馬鹿な行動はしない。イブ、お前が居たから、俺を助けてくれると思ったから無理を通す事が出来たんだ。俺一人なら、あの外生物と戦おうと思わない」


 「それは私を信用していたって事よね? ……いえ、それでも無理を通そうとしないで。もしルミナが機能停止……使用不可の状況陥れば、その行動に慣れてしまったら簡単に死ぬ。それを忘れないで」


 分かった。短い返事と同時に銃口がイブへ向けられ、乾いた発砲音が鳴り響く。銃弾は少女の背後へ忍び寄っていた回生者……ネクロスによって偽りの生を与えられた存在、ゾンビの頭を吹き飛ばす。


 「……お見事。機械腕は大丈夫そうね」


 「……あぁ」


 外生物を退け、ゾンビの群れを見据えた二人は銃と刃を煌めかせ、通路の先へ進むのだった。