肌を刺す緊張感と神経を逆撫でする静寂。拳銃の引き金に指を掛け、イブを睨み付けたダナンはゆっくりと指を引き絞り、騒めき立つ蟲へ意識を向ける。
「ダナン、無駄な事は止しなさい。そんな豆鉄砲で私を殺せる筈が無いわ」
「やってみなければ分からないだろ……‼」
撃鉄が弾かれ、銃口から火が吹き出すと一発の銃弾がイブに迫る。
甲高い金属音が鳴り響き、イブの纏う銀翼が弾丸を木っ端微塵に斬り刻み、鋭利な羽根を青年の首元に突き出し、少女は「貴男と私じゃ勝負にすらならないわ」と、圧倒的な力の差を見せつけた。
「……」
「ダナン、私だって無意味な争いを望んでいるワケじゃないの。ただ協力して欲しいと言っているだけよ? 信用も信頼も必要無いの……貴男は私の為に動きなさい。分かった?」
銀翼が少しずつダナンの喉に突き刺さり、血に濡れる。少女の瞳を見つめ、牙を剥いたダナンは研ぎ澄まされたナイフのような羽根を握り締め、皮膚と肉が斬り裂かれることも構わず怒りのままに捻り上げ。
「だから従えと言ってるのか? お前の為に俺が血を流せと言っているのか? ふざけるな……誰がそんな真似するかッ‼」
羽根を引っ張りイブの態勢を崩す。
頭ごなしに圧し潰され、どんなに力の差があろうとも屈しない。ダナンという青年が育った下層街は弱さを見せれば強者に喰い殺され、全てを奪われる弱肉強食の堕ちたソドムの市。絶対的優位の立場で余裕を見せる少女に反抗の意を示す青年は、銀翼から一枚の羽根を抜き取り、逆手に握る。
己は誰にも屈しない。僅かな可能性が其処にあるのなら、掴み取り、握り締めるのみ。身を斬り裂かれ、血を流しながらイブに近づいたダナンは瞳に憤怒と憎悪を宿し、彼女の首へ羽根を突き立てる。
「……落ち着いた方がいいわね、貴男は」
鮮血が青年の足元に溜まり、心臓以外の急所を五枚の銀翼が貫いていた。
「その反骨心と反抗的な態度は評価に値するわ。けど、貴男を見ているとどうも苛立たしい。生きたいと足掻いているのに、死んでしまいとも感じる矛盾した機微。本当に……腹立たしいわ」
「……お前に何が分かる」
「分かるワケが無いでしょう? だって、貴男と私は他人なんだもの。人の考えが理解出来る人間なんて居る筈がない。そんなこと、稚児や赤子でも無意識で感じ取るものよ」
「お上品な言葉で自分と他人を彩るなよ……! 俺は誰の道具にも成り下がらない‼ 決して、絶対に、惑わされるものかよッ‼」
中層街のような秩序も無ければ、暴力と欲望で成り立つ下層街は混沌の坩堝だった。
殺人、放火、強盗、強姦、詐欺、暴行……。一度でも奪われた尊厳と権利は紙屑のように吹き飛び、二度と戻らぬ汚濁の街。信用に足る人物は己がいずれ食い物に出来る誰かであり、信頼に足る言葉は実利と実益を兼ねる確固たる現実のみ。下層街で生きる事は、己の中に存在する人間性を獣性に捧げることなのだ。
「お前が俺を利用するつもりなら諦めろ‼ 無意味なんだよ……お前の言葉なんざ、何の価値も無い戯言だ‼ 殺すなら殺してみろ‼ その時は俺も」
「……悲しい人ね、貴男は」
少女の七色の瞳が、青年の溝底のような瞳を見つめ、首筋に突き立てられた羽根を抜く。
「貴男のような人を過去に見た事があるわ。誰も信じられなくて、愛せなくて、自分さえも嫌いだった人を知っている。ダナン、貴男が何と喚こうが、叫ぼうが、もう後戻りは出来ないのよ。ルミナに適合した貴男には、私に手を貸す義務があるの」
「それは勝手な言い分だ‼ そもそも俺は」
「俺は何? まだ私と睨み合うつもり? どう戦おうと、貴男は私に勝てないし、従う他生き残る術は無い。その意志と諦めの悪さは素晴らしい事だけど、今は必要無いの。無駄な足掻きを見せないで頂戴」
一歩退いては二歩進み、二歩進んでは三歩戻る会話の平行線。互いに睨み合い、一歩も退かない様相を見せるダナンとイブは逡巡する。
どうしたらこの男を懐柔することが出来るのだろうか?
どうしたらこの少女から解放されるのだろうか?
どうやったら、目の前の人間を思い通りに動かす事が出来るのか……。
息が詰まるような沈黙の中、深い溜息を吐いたイブは「分かったわよ、もし私の目的が達成されたら貴男の望みを叶えてあげる」と呟く。
「神様にでもなったつもりか?」
「馬鹿ね、私は人の子よ? 神様なんかに成れる筈がないでしょう?」
「なら悪魔の誘いか?」
「面白い冗談を言うのね。けど残念、貴男の目の前に居るのは人より多少頑丈な女の子なの。だからそうね……貴男の職業は遺跡発掘者よね? なら、遺跡についての情報を貴男にあげるわ」
「信用出来ないな」
「……ならもう一つ。貴男に本当の空を見せてあげる」
ピクリ―――と。ダナンの指先が僅かに反応した。
「昔は青い空が何処までも広がっていたのよ。緑の樹々の中で小鳥が囀り、動物が野を駆け回っていたの。貴男は興味が無いかも知れないけれど」
「詳しく話せ」
「え?」
しまったと―――ダナンが口を閉ざすよりも先に、彼の動揺を感じ取った少女は笑みを浮かべ、薄い桜色の唇に指を当てる。
「なぁに? 過去の事を知りたいの?」
「……」
「あぁ、黙らなくても結構。貴男の意志の綻びと隙間が見えてしまったわ。ダナン、良い事を教えてあげる。私に協力してくれたら、本当の空と楽園を貴男にあげる。どう? 魅力的な提案じゃない?」
これは己の弱さと隙が招いた結果だ。剥がれかけた鉄面皮を必死に取り繕い、弱みを得たと言わんばかりにダナンの望みを差し出した少女は、彼の身体を貫いていた銀翼を抜く。
「ダナン、塔の中で限られた生を得て、汚濁に塗れた自由を貪るの? それとも、私と協力して新世界を目指すのかしら? 選択は貴男に任せるわ。一生鎖に繋がれた野良犬になるのなら私の提案を拒否しなさい。けど……首輪と鎖を手放す飼い主は私だけ。いいじゃない……猟犬の方が貴男に似合っているわ」
「野良犬……か」
「そうよ、貴男は雨に濡れて狂ったように叫ぶ駄犬。何処かへ行方を眩ませた飼い主を探し、ただ生きているだけの迷い犬。ダナン、いいでしょ? 私が貴男を飼ってあげる。貴男が迷わないように導いてあげるわ。だから私の手を」
ダナンの握っていた銃がイブの眉間を撃ち抜き、硝煙を上げた。
「勘違いするなよクソガキが。いいか? 犬にもプライドってのがあるんだよ」
「……」
「あぁ確かにお前の提案は魅力的だ。だが、それは俺の望みじゃない。テメェ如きが俺を推し量れると思うなよ? 俺の生き方は、命は、誰の為でもない。迷っても辿り着いた道が正解だ」
犬と呼ばれ、駄犬と蔑まれても構わない。首に繋がれた不可視の鎖を噛み砕き、霞んだ名が刻まれた首輪を既に千切り捨てていたダナンは、口に溜まった血を吐き捨て、後屈したイブの胸元を掴み上げ。
「俺はまだ……自分の望みすら見つけちゃいないんだからな」
地面へ押し倒した。