第三十話 秘密

 優菜の家の前で、二人は立ち話をしようとしたが、一応人目も気になるし……と、優菜が言い出し、結局優菜は家に陽を入れたのだった。

「いつ来ても片付いてるよな。優菜の部屋って」

「そりゃ、散らかす時間も必要もないもの」

「ふうん。あ、ちょっと今日くらい、話していってもいい?」

「え、いい……けど……」

 令という婚約者がいるのに、異性を部屋に入れてしまってよかったのだろうかと、今更ながらに思う優菜。

 そんな優菜に気づいた陽は、俯く優菜の顔を覗き込んで呟くように小声で聞く。

「何。令のことが気になる、とか……?」

「うん……」

「大丈夫だよ。特に何をするでもないんだから」

「そう、かな……」

「抱きしめるくらい、何てことないでしょ」

「……」

「罪悪感でもあるの?」

「……うん」

「……あんなやつに、罪悪感なんて抱く必要ないのに」

「え……? あ、陽……っ」

 陽は優菜を抱きしめた。壊れ物を扱うかのように、優しく、大事に。

「いいから。今は俺のことだけ考えていて。俺に抱きしめられていて。それで、俺は救われる」

「よくわからないけど……、わかった……。抱きしめられていれば、いいんだよね」

 そのまま優菜はしばらくの間、陽に抱きしめられ続けた。

「あの……。陽……?」

「ごめん。苦しかった?」

「ううん。大丈夫だけど、なんで、泣きそうな顔してるの……?」

 優菜は陽の頬に触れた。

 その手を陽は包み込んで、キスをしようと顔を近づけるが、優菜はそれを顔を背け、拒んだ。

「ごめん。そういうことは、出来ないの」

「……そっか。そうだよな。こっちこそ、ごめんな」

 陽は優菜を放した。

 そして一歩離れると、荷物を持って玄関へと向かって行く。

「あれ、陽? お話していくんじゃ、なかったの?」

「悪い、ちょっと予定が入ってるの忘れてた。だから、また今度、いっぱい話そうな」

 そう言って、陽は優菜の頭を撫でて、優菜の家から去って行った。

 優菜は閉まる玄関のドアを見ていることしか出来ない。

「……何があったんだろう」

 優菜には、陽の複雑な心が全く読めないのだった。


 一方で優菜の家から帰宅している陽は、優菜との間に秘密があることに少し満足していた。優菜の全てではないにしろ、自分が優菜の中にいることだけは確実だったからだ。

 そして、陽は優菜の体温がわずかに残っている手をぎゅっと握りしめながら、道を歩く。

 何度も、何度も思った。何故自分が優菜の相手ではないのか。自分ならば優菜にあんな思いをさせないのにと、令を酷く恨んでいる。同時に、姫乃のことも。

 陽は優菜の全てが欲しいと思っている。あの笑顔も、泣き顔も、心も体も全てが欲しくて堪らない。なのに、それは叶わない願い。

 ならば、もう少し、自由に動いてもいいかもしれないと、自嘲するように笑って歩く。

 金ならある。この金を使って、あの男でも買収してみようか。

 あの、糸目の男を。そして優菜を苦しめる姫乃を騙して、優菜を救って……。


「で、ヒーロー君はいくらくれるの?」

 そうニコニコと笑顔を浮かべて聞いてくる糸目の男に陽は「いくら欲しい?」と逆に聞いた。

 男は「一億、どう?」と言う。到底払えるものではないだろうと言うかのように。

 しかし、陽はその額を受け入れる。

「いいだろう。一億円で、お前を買う」と……。

「……じゃ、今から君が雇い主だ。よろしくね。前の雇い主はどうする? またあの女の子に何かしろって言って来るだろうけど、全部断ればいい?」

 まるで、そう判断するもしないも全て陽に任せると言っているようなものだった。

「金さえあれば、忠犬なんだな。……いきなりだと怪しまれるから、しばらくは前と同じように言うことを聞いておいてくれればそれでいい。タイミングとかはこちらで考えるから、それまでは今まで通りで」

「俺はいつだって金が第一だからね。……オッケー、ボス」

「ただ、絶対に彼女を泣かせないこと。それだけは守れ」

「……結構難しいこと言うね。まあ、いいけど。一億円のためなら、多少は俺も頑張るよ」

 そう言って、男は手をひらひらとさせて街中へと去って行った。

 陽は少しばかり、あの男を買ったことに対して罪悪感を抱く。

 これでは姫乃達と同じことをしていると。

 そして、優菜を騙していることになるのではないかと……。

 いくら守るためとはいえ、敵を買ってまでして、することなのかと思ったのだ。

 だが、優菜を守るためにはこれしかないと、陽は思い込むことにした。

 一億一千万円、非常に高い買い物だった。だが、人の命に値段はつけられない。

 ましてや好きな女性のためならば、出せる金額なら全額差し出しても、それでもいいと陽は思うのだった。

「俺は、こんなに想ってるのに……。優菜には、届かないんだよな」

 ぼそりと呟くと、その声は誰も聞かずに風が消していった。


 そしてしばらくの間は穏やかな日々が訪れた。

 優菜はそのことに、安心と、不安を覚える。

 本当に穏やかだからこそ、何か企んでいる人間がいるのではないかと、疑う気持ちが心にあるのだった。

 会社でも、私生活でも、驚くほどに何もない。

 あの姫乃でさえも、何もしてこない。

 だからこそ、恐ろしかった。

 この穏やかな日々が過ぎ去ったら、きっと恐ろしい嵐がやって来るだろう。

 そう思えてしまってならない。

 それに、陽に抱きしめられた時に感じた罪悪感。その罪悪感を今も優菜は抱え続けている。何もない振りをして令と接しているが、あの令のことだ。もう気づいているかもしれない。

 でも、何も言ってこないのが、また恐ろしい。

 一気に不幸が降りかかるのではないだろうか。そう思ってしまう。

 そして、優菜は仕事終わりにスマホを見てみると、陽からメッセージが入っているのだった。

「今日、会えない?」と……。

 お金を、それも大金を使わせてしまった負い目がある。

 罪悪感が、優菜を支配し断らせない。

「もちろん、大丈夫だよ。場所はどこ?」

「優菜の家がいい」

「……わかったよ。もう仕事終わったから、帰るね。帰ったら、教える」

 婚約者がいながら、こんなこと、いけないと本当はわかっている。

 だけど、どうしようもない事情があるのだと言い訳して、優菜は陽とまた会うことにした。

 そして職場から優菜が家に帰ると、既に陽は優菜を待っていた。

「優菜!」

 酷く嬉しそうな顔をして。

「陽、どうしたの……? この間、会ったばかりなのに」

「いや、だって会いたかったから。俺の仕事の元気の源は、優菜だし」

「……そう言ってくれるのはありがたいけど」

「とりあえず、中に入ろう? 入れて?」

「う、うん」

 近所の目もあるからと断れない優菜は、言われるがまま家へと陽を上げた。

 そして家に入った途端、鍵を閉められ、優菜は陽に抱きしめられる。

「や、やめてよ、陽……っ」

「少しくらい、いいだろ……」

「確かに、お金を払ってくれたことは凄く申し訳ないと思ってるし、ありがたかった。だけど、こうして苦しい思いをするのは……」

「それって、俺のこと男として意識してくれてるってことでいいの?」

 陽は優菜の顔を上から覗き込んだ。

「……っ」

 優菜は視線を逸らしながらも、顔が赤くなるのを感じた。

 こんなことではいけないと、自分が一番わかっているのに。

 婚約者がいる身で、他の異性のことを異性として意識してしまうなど、あってはならないのにと……。

 それに、この世界で生き延びるために、主要人物達からは離れなければならないのに、こんなにも執着されてしまって、逃げるに逃げられない。

 もう、優菜自身、どうしたらいいのかわからなくなっていた。

「キス、していい?」

「……それは、さすがにダメ。ダメだよ」

「優菜……」

 ダメだとわかっている。でも、負い目を感じている優菜は、気づけばそれを受け入れてしまっていたのだった。

 一瞬触れるだけの軽いキス。でも、そのキスはこれまでの何よりも罪悪感を感じさせ、そして後悔させるものだった。

「俺達だけの、秘密だな」

「……こんなの」

「秘密だから、いいんだよ。誰にだって、秘密はある。それにあの令だって、昔……姫乃にキスしてたことがあること、まさか知らないの?」

「え……」

 知らなかった。まさか、令が姫乃とそんなことをする関係だったことがあるなんて。

「で、でも今は違うから……」

「本当に? 優菜、令のこと一日中ずっと見張ってるの? 違うでしょ? もしかしたら、姫乃のことも令が裏で手を引いてる可能性があるんだよ」

「そんなの言ってたら、私、何も信じられなくなっちゃう……」

「いいよ。あんなやつ、信じられなくなっても。でもさ、俺だけは信じてよ」

「陽を……?」

「そ。俺は優菜を裏切らない。今も昔も、俺は優菜だけを見てきた」

「……わからない。何を信じたらいいのか、わからない」

「今はいいよ、わからなくて。俺が、教えてあげるから。あんなやつとは違うってこと」

「……なんか、陽が怖い。怖いよ」

「俺が怖い? どうして。いつもと同じだよ」

「だって……わからないけど、なんだか、怖いんだもの……」

「……怖いんじゃ、また怖くなくなった頃に、会いに来るよ。メッセージは、返信くれると嬉しいな。じゃあ、また」

 カチャリと鍵が開いた音がした。

 陽はそのまま優菜の家から去っていき、優菜はその場に座り込む。

 あんなにも自分を出してきた陽は、久々だった。

 それに、恐ろしいと確かに思った。陽の底なしの暗い瞳が、絶対に逃がさないという意思が、優菜にも伝わったのだ。

 優菜はこれまでのことを思い出すと、陽がどんどん悪い方向へ変わってきてしまっていると思った。

 小説では、純粋な陽のままだったのに、今では何か人として、少し外れてしまっているような印象さえある。

 優菜は、もう陽と会わない方が良いのではないかと思ったが、今日作ってしまった秘密を、令に知らされてしまっては困るし、何より強く断れなかった自分が悪いと思うと、陽の全てを拒むことが出来ないのだった。

「これから、どうしたらいいの……」

 優菜はその夜、一人で悩むのだった。

 令に、もう今までのように顔を向けられない。

「辛い、な……」

 そしてそんなことがあった次の日、優菜はいつものように令と話すのだが、令はそんな優菜を優菜らしくないと思うのだった。