第29話:そうしてシャッターを押す

 リリはユリの違和感に気づいて視線を床に落とした。わたしは聞かずにいられなくて、ユリに声をかける。

「そうだったんだね。……おばあさんは最近亡くなったの?」

 聞いてもいいものだろうか。でも、見えている傷を見なかったことにはしたくない。

「最近ってほどでも。4か月くらい前ですかね」

 芦谷さんが「それは残念だったわね」とだけ言って、付近を畳みにカウンターの端へ移る。

「おばあさんに育てられてたんです。小さきときだけ。小学2年のときに母親とまた暮らし始めてから、もう10年くらいは離れて暮らしていてもうなんにも」

 ユリは、まだ手の中にあった金糸瓜の保存容器をぎゅっと握っていた。彼女が話し始めたのは広島にいたときの話だった。暴力を振るう父に、病んでしまった母、どちらとも暮らせない時間が彼女にはあり、保育園から小学校1年生までおばあさんの家で二人暮らしをしていた。

「でも、それらをあんまり覚えてないんです。確かにお世話になったはずなのに」

 眼球は乾いていた。

 その告白に動揺していたのは、明らかにわたしたち3人の方だった。


 「おばあさんの葬式のとき、『この家で過ごしたこともあったんだよ』と言われました。すると、不思議とそんな気がしてくるんです。でも、そのとき何をしていたとか、何が好きだったとか、全然頭になくて。おかしいなあって思うんですけど、まあ、仕方ないですよね。へへ」

 ユリの指摘はもっともだった。6歳、7歳あたりの記憶であれば、もっとくっきりしていてもいい。年齢のせいなのか、あるいは別のしがらみが悪さしているのか。

 それでも彼女は、あるはずの記憶を必死に探し出そうとしていた。はっきりと思い出せないことで、おばあさんを弔うことにつまずいていた。

「小さいころのことなんでしょ。仕方ないよ」

 リリの言葉に、「うん、そうなんだけどさ」と言いながら、俯く。その先に合った保存容器が目に入り、彼女は思い出したかのように保存容器をバッグにしまった。

「ちょっと薄情な気がしちゃって」

 えへへ、とまた首を傾けた。

 それをリリとわたしが口を結びながら見つめる。


 看護スキルの中に、人の死の苦しみを癒すものがある。「グリーフケア」と呼ばれるそれは、学生時代に学びはしたものの、病院でまじまじと向き合う機会はほとんどない。

 大切な人を失くしたとき、人は別れにショックを受け、ぼんやりとしか日常を感じられなくなってしまうことがある。その別れを「現実」として認識できるようになると、今度は対照的に心身に影響が顕著に出てくる。内にこもるようになったり、逆に波打つ感情に歯止めが効かなくなったりする。落ち込みや無気力が強すぎるときは自分自身だけではどうにもならない場合もある。人の死を弔うには、どんな人でも多くの時間を要するものだった。

 しかし、「時間薬」と表現する地域もあるように、時間の経過はそれだけで人を救うことがある。そうして人は徐々に大切な人が亡くなったことを受け入れ、それでも続いていく生活にやっと目を向けられるようになってゆく。


 彼女は、おばあさんの死を悲しむ一歩手前にいるように見えた。一般的なグリーフとは少し異なっているのかもしれない。



「この容器はいつ返しに来たらいいですか? 次のスクーリング、少し先で。できればその時にお返ししたいんですけど」

 打って変わってさっぱりとした表情で、彼女は芦谷さんに聞いた。

「保存容器はいつでもいいわ。そんなのたくさんあるんだから」

 芦谷さんは視線を合わせることもなく、返事をした。手を止めることもない。ユリはその距離感が肌に合ったのか、こちらを見ない芦谷さんを見て微笑んだ。

「かぼちゃはもらいものだったの。だから次来るときはないと思うわ」

 そんなのあえて言わなくてもいいじゃないですか、とわたしは芦谷さんを小声で諫めた。

「そうだったんですね。確かにこっちでは見たことなかったです」

 ユリは静かに受け止める。その横で、リリが「本当ラッキーだったじゃん!」と、励ますようにユリの肩を叩いた。

「……でもまあ、またもらったら作るから。SNS? でも見ていたらいいわ」

 そう言って、芦谷さんは顎でわたしを指した。

「この人がね、これから更新するんですって。ろくに見てる人なんていないのに」

「この子たちはSNS見てきたんですよ! 徐々にこういう子たちがいっぱいやって来るんですから」

「この子たちは特例じゃない?」

 ふふ、と上機嫌に笑いながら、芦谷さんは奥の部屋に消えていった。


 3人になったフロアで、わたしはふたりにアイスティーを出しながら言った。

「ほかのお客さんにも好評だったら、オーナーに頼んで本格的に仕入れてもらおうかな。今はね、お客さん自体が少ないから、ひとりが持つ選挙権の価値は絶大なの」

 にやりと笑うわたしに、リリが「やばー!」と口元を緩ませる。アイスティーが入ったグラスに口を付けたのは、やはりリリは最初だった。


「わたしたちの写真、全然好きに使ってくださいね! むしろもっと有名になりたいんで」

 ウインクも様になっている。リリの明るさがこのフロアを照らしていた。

「どれがいいかなあ。これとか! どうですか? いい感じに撮れたので、一番見えるところに置いておいてください」

 カウンターに置いたままだった写真をリリは並び替える。残してほしい写真を選んで行く。

「だから、わたしは写真を撮る方が好き」

 そう言って、ユリはアイスティーの水面をゆっくりと揺らした。