第32話 僕は人殺しではない

円形闘技場の戦士控室では、八歳となったばかりのアンドラスが、緊張の面持ちで出番を待っていた。

彼は仕立ての良いチョッキとズボンの上から、皮の防具を装着し、左腰に剣を帯びている。艶やかな金髪に蒼い瞳を輝かせ、可愛らしい少年は、今や凛々しい騎士となってたたずんでいた。

「アンドラス様、準備できました。どうぞ」

案内に促されて、アンドラスは闘技場の中央に通じる通路を歩き始めた。後ろに騎士1名が同行する。

「アンドラス様、命に代えても、お守りいたします」

後ろから話しかけられ、アンドラスは振り向くと優しい笑顔を見せた。やや顔がこわばっている。

「ありがとう、大丈夫さ」

入場門に控えていた男たちが、力強く縄を引くと、巨大な鉄製の柵が引き上げられる。

差すような昼の日差しに、アンドラスは目を細めた。観客から拍手が巻き起こる。

円形闘技場にはすでに大勢の人が、アンドラスの覚醒の儀式の証人となるため、集められていた。


これより物語は、しばし時の流れを遡る。ローリーの兄アンドラス、運命はいかにしてこの異母兄を、ローリーに引き合わせたのであろうか。

ローリーとある意味で対照的ともいえる青年の来し方に目をやれば、そこに貴族社会の影が差す。

さて場面はアンドラス八歳の覚醒の儀式。これは主人公ローリーが生まれる、八年前の物語である…。


闘技場の中央に、武器を持たされた捕虜が2名、立たされている。その姿はやせて哀れであり、疲れ切った表情で口で大きく息をしている。

アンドラスは抜剣し、構えると、自分より大きな右側の捕虜に向かって行った。大きな歓声に会場が沸く。

「アンドラス様!お待ちください!」

捕虜が両手で剣を構えて前に突き出した。飛び退るアンドラス。素早く右回りに背後を突こうとしている。

「てえええぃ!」

お伴の騎士が怒号とともにもう一人の捕虜の武器を、地面に叩き落した。同時に捕虜との距離を詰めるアンドラス。力無い斬撃を護拳でいなすと、声もなく捕虜の身体を大きく斬りつけた。その場にしゃがみ込む捕虜。アンドラスはその喉を横一文字に切り裂いた。歓声が起こる。

武器を失ったもう一人の捕虜が、逃げ出す。騎士はその足に斬りつけた。捕虜が倒れ込み、遅れてやってきたアンドラスはその背中に深々と剣を埋め込む。

血まみれの少年。息が荒い。皮の兜、鎧を脱いでしまう。騎士がハンカチで、アンドラスの血まみれの顔をぬぐって行った。


突然、そこに駆け寄ってくるドレス姿の貴婦人。美しく着飾っている。青白く整った顔立ちに、どこか狂気の色がにじんでいた。

「おお、アンドラス!勇ましい!お前こそモンテスの誇り、モンテスの未来!」

大げさなジェスチャーで喜びを表現するが、血に汚れた息子には一切触れようとしない。

「ありがとうございます、お母様」

胸に手をやり礼をするアンドラス。ヴォーナ夫人。彼女はモンテス八世の妻であり、アンドラスの実母である。腫れ物に触るように、近衛騎士がヴォーナの側にやってきて控えた。ヴォーナは裸足である。会場は突然の闖入ちんにゅう者に白けた。

「ヴォーナ様、さあ、アンドラス様への騎士章の授与が行われます」

何事か早口で騎士たちに語っているヴォーナ。アンドラスは父の待つ中央席へと向かう。ブレイク王国の旗が風をはらんでいる。近衛騎士が道を空ける中、アンドラスはモンテス八世のもとに歩んでいった。

「アンドラスよ。その剣技、忠誠こそ見事。貴殿は本日よりモンテス騎士団の歴史と栄光に浴する」

父の宣告に、跪くアンドラス。その肩に騎士の肩章が取り付けられ、勲章が左胸に授けられた。

アンドラスはこの日から、騎士となり、モンテス領の諸侯候補としての期待を一身に背負う事となる。


「ファルドン」

アンドラスは傍らの男に声をかける。ファルドンは三十代の聖職者であり、アンドラスの教育係を務めている。

「なんでしょう、アンドラス様」

「僕が殺した敵の捕虜たちは、どうなるの?」

「と、言いますと…」

「彼らには魂があるの?無いの?」

ファルドンは黙って逡巡しゅんじゅんした。

「ファルドン、マヌーサは異教徒をどうするの?」

「…あれらには、魂はございません。マヌーサの選民ではございませんから」

「そうか、よかった」

アンドラスは微笑む。よかった…僕は人殺しではない。そのとき、控えめなノックの音がした。入室してきたのは、アンドラスよりずっと年上の側仕えの少年である。

「アンドラス様、おめでとうございます!騎士は皆の憧れです」

「マシス、ありがとう!嬉しいよ。マシスに褒めてもらえて!」

兄弟のような二人の少年は、握手を交わす。二人は、秘密の友達であった。

さて神学の時間。アンドラスは教師に腹痛を訴え、自室に戻ると、衣装棚から釣りの道具を取り出して、こっそり城を抜け出した。南門の裏手に向かうと、マシスが待っている。

「アンドラス様、ホントに大丈夫ですか?」

「大丈夫さ。腹痛を直すには、釣りが一番なんだ」

二人は笑った。初夏。一番いい季節だな、とアンドラスは思う。駆けていく二人の少年。馬車のための大きな橋、そこを流れる北方山脈からの清流が、少年たちの遊び場である。ここは城の敷地内であり、いつだって二人の少年の貸し切りなのだ。水面が煌めく。川魚の黒い背がちらちらと見え隠れする。マシスの集めてきた芋虫を針に刺して、二人で糸を垂れる。風が実に爽やかだ。裸足に清流の冷気が感じられる。不意に両腕に、あたりの感触。焦らずに、ゆっくり、ゆっくりと引き上げる。小ぶりなますが獲れた。腹がキラキラと虹色に輝いている。

「そら、もう引いた!」

「すごいや。アンドラス様は釣りの腕も最高だ!」

器用に針を取り除き、魚をかごに入れる。三十分で3匹釣れた。アンドラスにとって、この時間は特別であった。マシスから街のこと、年頃の子どもたちのこと、それから戦争のこと…いろいろな話を聞く。アンドラスは多様な趣味を持っていたが、この時間が、釣りが特に好きだった。

「さあ、持って帰ってくれ。僕は城に戻る。急いで昼ご飯を食べなきゃ」

「いいんですか、アンドラス様」

「もちろんさ。マシス、弟たちは元気なの?」

「ええ、それはもう」

「じゃあ、鱒を焼いてパーティーでもするがいいさ!」

アンドラスは釣りの道具をまとめてひっつかんで、走り出した。

「またね!」

マシスはアンドラスの後姿を見つめていた。憧憬しょうけいと、羨望せんぼう…。

マシスの家庭は貧しかった。父は古くからの宮仕えで、男手一つで子三人を育ててきたが、病没。代わりにマシスが掃除夫となったが、アンドラスはマシスと仲良くなり、礼儀正しいマシスは側仕えを任されることとなった。

季節は流れ、モンテスに冬が忍び寄っていた。薪を買う金さえない、マシス。弟たちは寒さと栄養失調で皮膚の病などを患った。だがアンドラスがマシスの苦境など、知る由もない。アンドラスは今までの人生で、およそ困窮というものを知らなかった。

だがアンドラスはある冬の朝、マシスの服がすっかり汚れて破れている事に気付いたのだった。

「マシス。頼みがあるんだ」

「なんでしょう、アンドラス様」

アンドラスは麻の布袋に、事務机においてある、墨つぼとペン、その他の筆記用具などをまとめて入れて渡した。

「こいつを街の古物商で処分してきてくれ」

「えっ?」

「これは父のおさがりなんだ。僕には必要ない」

「しかし、このような高価なものを処分してしまって、お叱りを受けるのでは?」

「黙ってればバレないさ。マシス、弟たちは元気かい?」

マシスは黙って俯いた。アンドラスがその肩を掴んだ。

「ねえ、マシス。頼むよ。僕が街に行ったらそれこそ大騒ぎだ。なるべく、高く売るんだよ?」

「ですが、アンドラス様…」

「そうしたら二人で山分けだ。弟さんを、お腹いっぱい食べさせられるだろう?」

マシスは黙って俯いた。肩が、震える。

「たのむよ、マシス。君にしか、頼めない事なんだ」

アンドラスはマシスの手を取る。その手の甲に、雫が落ちた。

それからというもの、アンドラスは自分の身の回りのものを、それとなくマシスが処分するように仕向けた。